オルフェ

     お気に入りの80年代ニューウエーブ風オーバーサイズめのスーツに長い手足を包んだ、悪趣味なくらい
    スウィングしてるビックバンドのリーダー、中性的な魅力を感じさせるブロンドヘアーのミスゴージャス、
    つまるところ今日自分とデュオとして共演するハンサムなギタリストは出演者控え室の鏡の前で目を細め、あごを反らせている。整髪料をつけた目の細かな櫛で荒っぽく、細かくウエーブのかかったロングヘアーを後ろへ後ろへと丹念に撫で付けているのだ。その顔、無表情。
    「なあ、ファリス、……念入りだな」
    「バッツ、暇なら指鳴らししてろ」
    「もう客入ってるってば」
    「じゃあそこのダンキンドーナツ食って黙ってな」
     こちらに目もくれずに黙々と流した髪をゴムで彼女はゆわえる。
     ファリスのファンからの差し入れだろう、平たいオレンジ色したドーナツ入りの大きな箱がおれの目の前の机に置かれている。ゲロ甘のドーナッツかあ。これからお茶でもしましょう、なんて時ならいいけどなあ。仕事前にはとても食指が動かない。それに今日は、ここ最近ではわりと気に入っている、とっておきの楽しみがあるから。それを考えると少しテンションもあがって、もうドーナツなんかどうだってよくなっちゃうんだ。

    「『そういうのは、パスだ』、
    これ、最近知り合ったやつのまね……今日さ、おれ美人とデートすんの、これおわったら」
     ふん、と鼻息一つ洩らして、哀れむような目でファリス・シェルビッツ――芸名。渋いオジサマから果ては甘い性倒錯の匂いにそそられて目がハートになってしまったグルーピーにまで愛されるミュージシャン、本名サリサ・シュヴィール――は控え室のソファに寝転がるおれ、バッツ・クラウザーを見下ろしている。
    ――もうだまってろよ、とでも言いたげだな。
     この目の前の「ファリス様」に貰った一張羅のコムデギャルソンのスラックス、かろうじてアイロンのかかっているシャツと親父の形見のネクタイ、革靴。今日のおれのステージ衣装なんてこんなもん。髪なんて演奏してるうちにどうせ乱れるんだから気にしようがない。
     不意にジャケットのポケットに入れていた携帯からデフォルトの着信メロディーが流れる。
    たまに街で同じのを聞くと、自分の電話が鳴ったのか確かめたくなる。メールの受信画面には予想していたのと同じ名前。

    Sub:Re;Re;Re
    Main:りょうかい また あとで
     ソファーの座面に突っ伏してメールを打っていると、不意に画面に影が落ちる。
    「ファリス!おれにだってプライバシーはあるんだぜ」
    「おまえのプライバシーなんかのぞきたくもねえよ。胃もたれしそうなゲロ甘なメールでも書いてたのか?
    ……行くぞ」

     すっかり準備の整ったファリスが顎をしゃくって時計を示した。時間だ。
    NOKIAの大分古くなってしまった携帯をつなげた充電器をコンセントにぶっさしたら、控え室の電気を消して、部屋を出る。
     おれの前を歩く、マタハリも真っ青のマニッシュなハンサムウーマンはチューニング済みのアコースティックギターを抱えている。ステージと袖を隔てる緑色のカーテンの向こう側にいるのは大多数が酔っ払い、あとはハンサムウーマンのグルーピーか、ほんの少しのジャズきちがいだと思えば気が楽になる。
     バーの照明が一段階暗くなり、ステージに明かりが付いた。こうなったらもうなにもかんがえないことにしている。座りなれたこの店のピアノチェアーに腰掛ける瞬間はいつも肌がぴりぴりする。しばらくすると、場の空気が身体の中に表皮を伝って流れ込んでくるのが感じられる。そうなればもう、客席に座ってるやつらが欲しいものも、それをどう裏切ればいいのかも全部わかるんだ。
     ステージの中央に配置された椅子に座ったファリスが目配せをする。
     おれは短く息を吸って、それから鍵盤を弾いた。

     音がどんどんあたまのなかに氾濫してくる。
     いろんな色の音が見える。
     自分はただそれにおぼれないよう、ファリスのギターを波に飲まれないように差し出された浮き輪のように感じながら鍵盤を叩き、まともでいるために、客席の向こうのよいどれる人々のために演奏する。めまいがする色彩の中、今掴むことを許されているよすがになるものに必死でおれは掴まらなければならない。
     ある時、古びたシャンソニエである歌の伴奏をした時、そこのマダムが言っていた。
     この歌の女は昼も夜もあるメロディに苦しめられ、数十万ものミュージシャンに祟られて気が違う一歩手前であり、しかしそれに憑かれながらも歌うのだと。
    その話を聞いて、少し安心した。
     多分おれも似たようなものだから。