オルフェ

 メトロにのって次の駅で降りて、歩いて5分。おれの住んでいるベットルームとキッチン、バスルームだけのフラットよりは随分ましそうなアパートにたどり着く。その中に入ろうとする背中に問いかけた。
「おれは、バッツ。あんたは?」
「ぼくは、セシル」
 言うが早くロビーに入っていき、階段を上っていくセシルをおれは追いかける。最上階の3階のある部屋の前で彼は止まり、鍵を空けると、扉を押さえて、「入って」と少しだけ笑った。

 なにか飲む?ぼくは飲まないけど、と言うセシルの声が聞こえる。続いて冷蔵庫の扉が空く音。いや、今はいいや、とおれは返事を返し、間接照明の灯った暗いリビングルームのソファーに座り、着ていたモッズコートを脱いで自分の横に畳み、長袖のTシャツ一枚になる。
 リビングに現れたセシルの手にはミネラルウォーターの瓶がある。それをソファーの横にあるサイドテーブルに置いて、彼もソファーに上がって来た。おれの頬に冷たい白い手が触れて、それから続いて、いいの?という声が聞こえる。
 いまさらだろ、と返して同じように相手の頬に手を添えた。、そういえばさっきは何も返事しなかったっけ
 何度か感触を確かめるように短くキスした後、セシルはおれの長袖Tシャツを脱がせて、それから額にキスをした。
「脱がせてくれる?」
「いいよ」
 おれも彼のシャツに手を伸ばし、一つ一つボタンを外していく。露になる白い胸。
「はは、乳首勃ってるぞ」
「部屋が寒いから……」
 どうだかなあ、と耳元で笑うと笑い返してくるので、緩く癖のあるその髪をくしゃくしゃと撫でると、気持ちよさそうに目を細める。前を空けたままのシャツに手をかけ、腕を抜かせて脱がせると、そのままソファーに押し付けるように上裸の彼を倒す。その胸に目立つ飾りを唇に含むと、ちいさく、あ、なんて声を上げるので、もっといじめたくなってしまった。執拗に片方の乳首を口内で転がしながら、もう片方を指でごりごりとつまんで苛む。口のなかで膨らんでいくそれに強く吸い付くと甘くすがるような声が上がった。
「あ、っ、バッツ、そこ、」
 早速息が荒くなってきてるのを聞いて、にやりとする。セシルの片腕は頼りなくおれの頭を抱いている。もう片方はソファーからだらんとおっこちる形になっているが、ときどき背中が反る瞬間に合わせて、指先が丸まるのを見るのは楽しかった。
「乳首だけでそんなに感じてんの? ……他んとこ触ったらどうなるんだろうな?」
 胸を大きく上下させて息をしているセシルの目じりに浮かんだ涙をキスで拭うと、しなやかに筋肉のついた腕に抱きすくめられる。
「ねえ、ここ狭くない?」
 上ずった声に囁かれ、うなづく。奥の部屋にベットがあるというので彼を抱き起こし、もう一度、今度は長いキスを――お互い相手が誰かなんてささいなことだ、と思えるくらいまで興奮するために――した。
 
 ボトムも下着も全部脱ぎ散らして、そのまま二人ともベッドに倒れこんだ。寝室の窓から入ってくる光だけを頼りに、電気もつけずに身体をまさぐりあい、お互い好きな場所に口付けしあう。おれがセシルの背中にあるいくつかの大きな傷に気が付いたのはその時だったけれど、せっかく気分が乗っているのを台無しにしたくなかったので、何も言えなかった。
「ねえ、口でしてもいい?」
「ああ、いいぜ。じゃあさ……」
 自分の顔の上に脚を軽く開かせてセシルを跨らせると、すでに緩く勃ちあがっている彼のものに手を添えて竿を上下にしごき、先端の部分を舌先で刺激する。自分のものの先端もセシルの唇に包まれて上下させられたり舌先でつつかれている。そのやって緩やかに与えられる刺激や口腔内の熱さが心地よかった。どくどくと自分のそこに血が集まり、体積が増していくのを感じていた。
「……なあ、おもちゃにしてるだろ」
「きみこそ。……ねえ、気持ちいい?」
 頷きかけてから、そういえば見えないんだったな、と思い出し、返事はしないで、竿にふれていた手をそのまま動かしながら、陰嚢を口に含む。
「っ、あ、バッツ……」
「なに、しゃべると、できない」
 手だけは動かしながら返事をする。相手の声と同じように、自分の声にも欲情に浮かされた響きが感じられることに思わずおれは苦笑してしまった。
 唾液と体液まみれになった自分の性器をぴったりと奥まで咥えてセシルの口が上下するのがわかる。段々と射精感が近づき、腹に力が入る。相手もおなじなのか、血管が浮いて先程よりも硬度を増してはちきれそうになっているペニスの竿に短く口付けると、それから絶頂をうながすようにくわえ込み、吸い上げるように上下に扱いてやる。
「ハ、……いく時、言えよ」
「っぁ、うん、わかった……ね、……はぁ、くちにだして、いいよ」
 そういい終わるが早く、おれの性器の先端を生温い口ですっぽり包み込んで、追い討ちをかけてくる。
「……あーっ、は、もう、出る……」
 自己申告にいいよ、と返事が帰ってきたあと、ああぼくもだめ、と小さい声で続いたので、彼の性器から唇を離した。次の瞬間何も考えられなくなり、おれはセシルの口の中に精液を流し込んでいた。
「はぁ、……それ吐いちゃえよ、飲むことないだろ」
 気が付くと、彼も達していたようで、自分の胸から腹にかけて、白い液体が飛散している。達した後の身体のだるさを感じながら肩で息をしていると、ふっと身体に掛かっていた重みがなくなったのに気が付く。おれの上からセシルが降りたのだ。こちらに傷だらけの背を向け、シーツの上にぺたんと座って、同じように息を整えている。
「ん……もう飲んじゃった」
 顔だけこちらに向けたセシルの口からは飲みきれなかった自分の体液が伝っていた。それを指先で拭い、呆けた顔で舐め取る様子を見咎めてると、実は好物とか?と聞かずにはいられなかった。
「はは、なんかもったいなくて……出してくれたと思ったら嬉しくなっちゃうし、全部飲みたくなる」
 若干くたびれた笑いまじりに、ベットから降りて、裸のまま家主が別の部屋へと行くのを見送ってから、勝手にベッドサイドにあったクリネックスを拝借して身体を拭くけれど、いまいちべた付いた感じはとれなかった。

 立ちあがり、何とはなしに先程よりも明るくなった部屋の中を観察する。ベッド、クローゼット、背の高いランプ、書き物机にデスクトップ型のPC、ビデオデッキと十数本のビデオ、あとはDVDが並んでいるくらいだ。
 ――ロミオとジュリエット、ドン・キホーテ、ラ・シルフィード、ジゼル、マシュー・ボーン版くるみ割り人形――自分の生活には縁のない、題名くらいは聞いたことのあるDVDの背が並ぶ中に、ひとつだけ見覚えのある文字を見つける。

 Orfeus und Eurydike

 undの後なんて知ったこっちゃない、用があるのはOrfeusの文字だけだった。突然頭の中に初めて覚えた「黒いオルフェ」の旋律が流れ出し、そわそわとした気分になる。映画の『黒いオルフェ』は一度も見た事がないし、ストーリーも全く分からない。ただ、この曲がカーニバルの朝という、アンニュイな旋律には似合わないタイトルであることだけは知っている。”Orfeus und Eurydike”と書かれたDVDをラックから取り出し眺めていたら、眠そうな顔のセシルが戻ってきたので、そのままそれは書き物机の上に置いておく。
「何かあった?」
「いいや、なにも」
 一瞬窓の外を眺めていたら、手を引かれてベットに寝かされる。そのまま彼が持ってきた濡れタオルで身体を拭き清められた。
「バスルーム使いたかったら使っていいよ。あと、これ」
 と、冷たいミネラルウォーターの瓶が頬に当てられるので、受けとって上体を起こした。
 自分が飲んだ後にセシルに瓶を差し出すと、さっきキッチンで飲んできたから大丈夫、と突っ返される。それをベッドサイドに置くと、ベットに腰掛けているセシルの頭を、膝立ちになって抱く。
「あんた……セシル、寝なくていいのか、仕事とか。おれは明日一日、夜まで暇だからいいけど」
「うん、そろそろ寝なくちゃ……明日昼から稽古だから」
「そっか、ゆっくり休めよ、風呂借りたら帰る」
「気をつけてね……おやすみ」
 言えば、緩慢な動きでシーツの中に裸のままでセシルは潜り込む。数時間前にあった時よりも血色がよさそうな今は、マネキンにも石膏像にも見えず、自分と同じ年頃の青年に見えた。閉じかけた瞼が重そうな表情でこちらを見る彼の頬に口付け、小さくおやすみ、と言ってから「セシル」と名前を呼んでみる。
 身に着けていたものをそっと拾って部屋を出た。

 シャワーカーテンの中で、お湯に打たれながらとりとめもなく考える。
 今度仕事をするホテルの最上階にあるバーの高い天井は、ガラス張りだった。大きな円形を描いているのでプラネタリウムのようであり、熱帯の植物が似合いそうでもあった。この契約が決まった瞬間真っ先に思いついた最高のアイディアは、そこで仕事をする時には仕事をするなんて言わず、「植物園に出かける」と言うようにする事だった。実際この「植物園」にはアマゾンの蝶もいなければ、ゴムの木も胡蝶蘭もないけれど。
 植物園に退屈や物憂さの漂うマネキンは似合うだろうか。

 リビングルームに会ったメモに名前と連絡先と住所を書くと、元通りモッズコートを来て、アパートの部屋を出た。もう外は大分明るくなっていた。東の空にはまだ金星が見える。
 上機嫌だったおれの頭の上にはまだ星が並んでるだろうか。