オルフェ

 頭の中で鳴る音をすっかり追い出してしまうために、目の前に横たわる人と唇を合わせ、目をつむって、舌を吸い合い、唾液をすする。今度は合わせる角度を変えてもう一度。合間に短く口付けたりしながら、組み敷いた人のシャツのボタンに手をかける。「こういうこと」にいっしょうけんめいになればそのうちに迫ってくるなじみの旋律を振り切ることができる。決して振り返ってはいけない。けっして。
 タイを緩めて自分もシャツを脱ぎ、いかにも欲に駆られてるって態で、ボトムは履いたまま腰をぶつけて、擦り付ける。相手の手がおれの背中に伸び、二人の距離がぐっと近くなる。呼吸音。
 自分を抱き寄せた人の目を見ると、やはりおなじように熱に浮かされてるって感じの目をしている。
そういえば何から目の前のマネキンみたいな男は逃げようとしているんだっけ。もう一度目を瞑り、相手の首筋に唇を落とし、強く吸いながら、それを思い出そうとする。

その晩は、もう、頭の上にスロットマシンよろしく星が三つが並んで浮かんでいそうなほど、おれ、バッツクラウザーは上機嫌だった。時間はもう真夜中に差し掛かっている。天気はあいにく曇天で、実際には星なんて一つも見えなかったけれど。

 一件定期的な仕事――ちょっと自分で飲みに行く感じではない、息が詰まりそうなおハイソなホテルの最上階のバーで、21時・22時・23時と各回大体30分、女の子を口説きに来てたり、あるいは高い酒をそれっぽい場所で飲みたい奴らの邪魔にならない程度に、お上品な演奏をすること――の契約が決まったから。
 おっしゃ、それじゃ決まりだな、お祝いにさ、こう、ぱぁーっと飲みに行こうぜ。そう言ったのは、以前彼が出演していた舞台のサウンドクルーとしておれがピアノを弾いたのが縁で親しくなった役者のジタン。待ち合わせに指定してきた場所に時間を過ぎても姿を現さないので電話をかけたら「悪ィ、約束の日間違えていた」といったのもジタンだった。
 そのまま帰るっていうのもいま一つ面白くなかった。
 なんたって踊り出せそうなくらい、何でも出来そうな、エクセレントな気分なんだから。一杯くらい引っ掛けていくのもいいだろう。どうせわれらが街の優秀な地下鉄は24時間営業だ。

 階段を下りた先の地下にあるパブは週末の夜にふさわしく混雑していた。かろうじて空いていたカウンター席におれは居場所を見つける。一人でいるときのもっぱらの楽しみは人間観察だ。自分が過ごしてきたものとは違う人生を感じて、にやっとできるから。
 右隣にいるじいさんとその隣に座っているじいさんは二人ともアイリッシュっぽいアクセント。大声で上機嫌に何だかんだ話をしている。やれ、キューバにカジキマグロを釣りに行ったがまったく釣れなかった、だの、ヘミングウェイの邸宅を見てきた、だの。カウンターの中のマスターとのやり取りを見ているとたぶん常連らしいことが分かる。
「マスター、モヒートくれよ」
 こちらを見て一つうなづくと、うん、とも言わずマスターはタンブラーにカクテルの材料を入れ始めた。

 ラテンジャズの流れる店内の照明は暗く、室内はスペイン風にしつらえてある。塗った壁の青とそこかしこに掛けられたカラフルな額の色とのコントラストがまぶしい。天井では木製のシーリングファンがゆっくりと回っている。
 しばらく待ってモヒートが出てきた頃にはもう、右隣のじいさんたちを眺めるのも、彼らのキューバ旅行の話を聞くのも飽きてきてしまった。次はどいつにしようか。
 カウンターの下で足を遊ばせながら、今度は左隣の席を盗み見てみる。
 
 手元のスマートフォンを耳に当てている、わりかしきれいな顔の男がいた。訂正。少し整いすぎてて、ハイブランドのショーウインドウのマネキンみたいに見えるやつ。柔らかく癖のある乳白色の髪は肩に付くくらいまで伸ばしてあり、たゆたうままにしてある。

(うん、それで?へぇ…)
 時々笑ったり、小さい声であいづちをうったりしている。邪魔をするわけにはいかなかった。