オルフェ

(ボケっとした顔してどうしたんだよ、もう2ステージ終わったぜ。瞳孔あいてるぞ……相変わらずだよな、楽しかったよ、今日)
 不意に肩を掴まれた。それからカウンターのハイチェアーまで連れて行かれて、座らせられる。
 次いでだれかが、炭酸水をおれに飲ませる。グラスからではなかった。生ぬるい水が口移しで入ってくる。
 口の中がぱちぱちする。
 いつのまにか、前のルームシェア相手からせんべつに貰ったモッズコートは肩にかけられていた。
 (じゃあな、おれは帰る。)
 どこかでファリスの声がして、ふっと気になり、ステージを見てみたらもう暗かった。
 もうおれはピアノの前には座ってはいないのだ。今日の演奏は終わり。そうはっきり認識した途端、どっと疲れが来て、いまさら膝ががくがく笑い出す。自分の物ではない、白く、指の長い手が震えるそこへ置かれたのはその時だった。
「荷物も彼女が全部持ってきてくれたよ、はい」
 だれかが差し出した革の鞄の中を見ると譜面も、携帯も財布も全部入っていた。
「……何でも弾けちゃうんだね。すごいよ。見てて、楽しかった」
 徐々に震えが収まってきた膝の上にいまだあるその手に自分の手を重ねる。
 手が冷たいのはマネキンだからか。隣に座る色素の薄い、整った顔立ちの青年の名前をおれはようやく思い出し、口に出す。
「セシル」
 名前を呼ばれた彼が何に驚いたのかは分からないけれど、唐突だよ、とでも言いたそうなびっくり顔をしている。だんだん頭がはっきりしてきた。目の前の相手が呆気にとられているうちに、おれは彼が飲んでいた分の炭酸水の代金とチャージをカウンターに置くと、ハイチェアーから降りて、それからセシルの肩を叩いた。
「待たせてゴメンな、行こうぜ。もう腹ペッコペコでさ。あんたは? 何食いたい?」
「なんでもいいよ、バッツつかれたんじゃない。どこか近くに入ろうか」
 話しながら、セシルはクロークに預けていたマリンコートを羽織って、心なしかゆっくりと外に出る準備をしている。準備が途中でも構うもんか。おれはセシルの手を引いて、寒い戸外へと飛び出した。
「ちょ、バッツ!」
「どっかそのへんで何か買ってさ、もうおれんち行こうよ、外出てるの、ちょっとしんどくて」

 がちゃがちゃ、と鍵を鍵穴にねじ込んで、フラットの入り口を開ける。どうぞ、と先にゲストを通した部屋の中は案の定寒いので、暖房の温度も調整する。セシルのコートを脱がせると、自分のコートと一緒に玄関のハンガーラックにかけてしまう。年季の入ったこの狭いワンルームの中には元々備え付けのベットやローテーブル、大きなトランク一つ、あとは楽譜とCDの入ったダンボールしかない。引っ越してからしばらく経つけれど、一向に荷解きする気になれない。

「ねえ、これ暖めなおす?冷めちゃったかもよ」
 この部屋、どうしたもんかな、とローテーブル横に敷いたラグの上に座っていたら、セシルの声が台所から聞こえる。結局帰り道に適当にファストフードを買いこんできたけれど、急に食べる気分じゃなくなってしまった。腹は確かに空いているけれど今はどうだっていい。どうするのー?とのん気な声が続く。
  「置いといていいよ、おれそれより」
 気が付くと声のする方へ歩き出していた。
 キッチンに立つ背中を抱いて、肩に顎を乗せると、わ、いきなり来たね、って笑われた。
 妙にむかついたので白いシャツの襟に縁取られたなま白い首に唇をあてて、それから噛んだ。結構強く。
「いた、」
 小さく声を上げるのも気にしないで、次は耳。ごく弱く息を吹きかけて、そこから徐々に形をなぞったり、耳の中に舌を入れたり。耳介が血色良くなって赤くなってきてる。思い切り、がぶりと噛み付いてやる。どんな顔しながら、こういうことをさせるんだろう。やっぱり笑ってるんだろうか。

「ああ、だめ、いたいってば」

   おれは昔から一度聞いた曲は忘れないし、まだまだ覚えてゆける自信がある。だからレパートリーの数で誰かに負けることはめったにない。でも、たまにその曲すべてに押しつぶされそうになる時がある。
 頭の中でがんがん音と色やイメージが――おかしくなっちゃったビデオゲームの画面みたいに、ドットの色が変になったり、文字化けしたレパートリーの名前が――押し寄せる。まるで何十万ものミュージシャンや作曲家に憑依されてるみたいに。
 こんなふうに叫びだしたくなる時はセックスするかひたすらピアノを弾く。そうしているうちに、すっかり大事なものはダンボールに収納されたままのこの部屋みたいに片付いて、からだ一つでまたおれはどこにでも仕事にも行けるようになる。
 ああ、目の前にいるこいつの背中の傷を見たのはいつだったっけ?
 舌を這わせたい。跡が残るほど爪を立てたい。
 耳から唇を離すと、おれはセシルの髪に顔をうずめて、ゆっくりと呼吸した。このまま自分の中の音の洪水が、水はけのよさそうなこいつの中に流れていってしまうように願って。
「バッツ、甘えたいの?……何か、歌ってる」
 自分でも気が付いてなかった。つい口から零れ落ちるメロディーは黒いオルフェ。
 振り向いたセシルは首をかしげ、それって何の歌、と聞いてから、おれの髪にキスをした。翳ったすみれ色の目をしているオニンギョサン。なに、かんがえてるんだろうな。考えるのがめんどくさくなって目を瞑る。ねえ、何の歌?と聞きながら、額にキスを落としてくる声の主には、なんでもないんだ、と短く返し、その細いけれど良く鍛えられた体を正面から抱いた。
 黒いオルフェは映画の名前。ほんとうはカーニバルの朝という曲。母さんも父さんも、父さんのガールフレンドも、みんな歌っていた。

 「母さんと親父は、当時親父が組んでいたジャズクィンテッドの巡業先で会ったんだ。親父は今のおれみたいなピアノ弾きでさ。巡業のために国内外どこでもいったんだって母さん死ぬ前によく言ってた。それで、5歳の時から親父とふたりきり」
 結局、あの後ついうっかり冷蔵庫を開けてしまったがために、ベットに座って服も脱がずに、おれはチェリーラムコークを、セシルも買い置きしてあったペリエを飲んでいる。
「それで」
 なんでこんな話してるんだろう。内心モヤモヤしたままだったけれど、めんどくさくはなかった。むしろ自分でも忘れてたくらいだ。こんなバッツ・クラウザーができるまで、の話なんて。

「義務教育が始まるまではべったりだったし、学校に入れられてからも長期休暇とか仕事にくっついて行けるときは一緒に過ごした。もういつだったかは覚えてないけど、親父の留守の間に親父のライブ音源、テープで聞いてさ、かっけーなー、って思って、ピアノ始めた。で、一番最初に弾いたのが、さっきの曲」
「……」
 何か思うところがあったのか、セシルはしばらく黙ったまま、うつむいていた。それからペリエの瓶をローテーブルに置くと、ぱたん、とベットに倒れこみ、天井を仰いだ。
「その映画は見たことないけど、別のオルフェなら、ぼくも知ってる。
 オルフェオとエウリディーチェ、天国と地獄とかで有名なやつ」
 よし、動いた。自分も持っていたグラスをローテーブルに置き、セシルの隣に横向きに寝転んだ。

「オペラバレエなんだけど、向こうに住んでる友達が送ってくれたんだ、いい奴でさ。学生時代は宿題とか、よく頼りにしてたっけ」
「……ふうん、そっか。」
 こいつってこんなに喋るやつだったっけ。思えば今まで会話らしい会話をしてきていなかったのかもしれない。ベットのシーツの上に広がる、真珠色の髪の毛に指を絡ませて、遊びながら相槌を打った。
「そうなんだよ、カインっていってさ、今は……に、
 あ、」
 これ以上会話を続ける気はなかった。目の前に横たわっている、いつになく生き生きとした様子の青年を覆い隠すようにおれは四つんばいになり、それから顔を近づけて口を吸った。
「でもさ……そんなことより、やらしいことしようぜ」
 唇は炭酸水の味でもなければプラスチックの味でもなくって、ああ、こいつは生きて動いている人間らしく、プペなんてよべないな、とおれはぼんやりと劣情にまみれたあたまでおもった。