パ・ド・ドゥ

 電話口で「なるべく上等な花束を」と言われたのが45分前。なかなか進まない車列を眺めるのにうんざりしていたフリオニールは、夕方のラッシュをようやく抜けると、ある劇場の裏手にくたびれた白いバンを停めた。表通りの喧騒を離れた薄暗い搬入口はしん、としていて、バンのドアを勢い良く閉めると、乱暴な音が響く。
 花束を作るにあたって聞いたのは贈り主と受け取り手の名前、そしてそれが舞台の出演者へのプレゼントということだけ。低く、落ち着いた声で電話越しに告げられた受け取り手の名前は男性名だったので、ピンクを基調にアレンジを作るのは止めた。
 今週の頭にこの街を襲った寒波の余波は、人々が”Thanks God This is Friday!”と感謝する金曜の夜になってもまだ弱まらない。

 こうして外に立っていると身体が震える。

 ――ああ、早いところ、配達を済ませて今日の仕事をあがってしまいたい。それからはまあ、部屋でビールでも飲みながら週末の予定について考えるさ……。

フリオニールが匂いたつ白百合をメインにした大きな花束を腕に抱え、劇場の正面玄関へ向かおうとしたその時、裏口のドアが金属の軋む音と共に開いた。

 ドアの向こうから漏れる光の中に立つ長身の青年を見た時、フリオニールは今しがたまで急いで仕事を終わらせようとしていたのを一瞬忘れた。色素の薄い柔らかそうな毛質の髪を頭頂部で結わえているその彼は遠めに見ても、どこかつくりものめいた美しいかんばせを持っていた。視線に気が付いた青年の瞳がフリオニールを捉える。
 目が合って、瞬間、息を飲んだ。

「それ、誰宛かな?」
 形のいい唇から透き通った声がこぼれる。
 フリオニールは花束を抱えたまま、無意識に彼の方へと近づいてしまっていた。
 先程はよく見えなかった青年の瞳の色が今なら良く分かる。――すみれ色。
 タイツにレッグウォーマー、薄いナイロンジャンパーを着込み、今、目の前で入り口のドアに背を預けている彼は、その姿の通りバレエダンサーなんだろう。
 背丈は多分自分とほとんど変らない。しかし引き締まった足のラインや首筋の美しさ、軸の通った姿勢、優美さを感じる筋肉の付き方をした彼の体つきは、彼が自分の住んでいる世界とは異なる、ストイックさが要求される場所で日々を過ごていることを感じさせた。

「渡しておくよ。ね、誰に渡せばいい?」
「ああ、これ……」

 裏口を照らす光を受け、ダンサーの乳白色の髪は艶やかに輝いている。まじまじと見つめてしまったのは、ずいぶん整った顔だからというだけではない気がする。その姿に何となく既視感を感じていた時、どうしたの、と目の前の彼の声が聞こえ、フリオニールは頭を振って言葉を続けた。

「セシル・ハーヴィってひと宛なんだ。知ってる?」

 その名前を聞いた瞬間、マネキンのようなダンサーは虚を突かれたような表情を浮かべた後、フリオニールの抱える花束に添えられていたカードを抜き取り、眺めている。
「うん、知ってる……」
それから彼は、少しだけばつが悪そうに笑うと、メッセージカードを破り捨てたのだった。
「ちょっと……何するんだ!」
「ごめん、これ僕宛なんだ。
……だから、どうしたっていいかな、ってさ、どう思う?」
 驚いて、つい声を荒げてしまったが、当のセシルは気にした様子はなく、何を考えているのかいまいち図りかねる小さな笑みを浮かべたまま、首を軽く傾げている。声にも悪びれたところはちっともなく、むしろそれはいたずらっぽくすら聞こえるのに。
 それでもフリオニールはなんだかぞっとしてしまった。

 45分前、セシルの名前と劇場の場所を電話口で伝えた声も、今セシルが浮かべる表情のようにフラットだった。もちろん社交辞令で花を贈ることが悪いなんて決して思わない。贈ったり贈られたり、それを媒介することでフリオニールは生計を立てているのだから、その習慣には、いくら感謝してもし足りないとすら思っている。
 しかし、やはり目の前で自分が作ったものをぞんざいに扱われるのは決していい気分ではない。そういえば、注文をしてきた男は最初からこのように無碍にされる事を知っていただろうか。
 そうだとしたらどうかしてる。

 こみ上げてきた、後味の悪い思いにとらわれるうち、言い返す言葉を見つけられずフリオニールはただ突っ立ったっていた。そんな彼を置いて、セシルは劇場の中へ戻ろうとしていた。花束はいまだフリオニールの腕の中にある。

「! あの……! これ、受け取ってもらわないと困るんだ、おれ」
 フリオニールは慌ててダンサーの肩を掴んだ。
 こちらを振り向き、驚いたように目を見張ったセシルの端正な顔には動揺が現れていたけれど、ここで引き下がるわけにはいかない。フリオニールは彼の胸元に花束を押し付ける。
――呆れられただろうか。
 花束を押し付けられたセシルは、まばたきのあと、驚きの表情を解いてフリオニールを見ると、目を細めてかすかに口元を歪ませる。 「ごめん、仕事だものね。お疲れ様」
 胸に抱えていた花束が手を離れたと同時に、少しだけフリオニールの心も軽くなる。
 息をついて、自分もセシルに習って笑う。
「ああ、あんたもこれから舞台だろ、がんばって」
「ありがとう。がんばるよ、ぼくも仕事だから」
 そっか、この人プロなのか。
 その言葉で合点がいった。舞台前にしては余裕のある立ち振る舞いだった。目の前に立っている彼がプロダンサーであるという事実にすっかり納得し、半ば感心しながらセシルを眺めていたフリオニールの耳には、どんなオーダーで花束を作ったのか、という彼の問いはすぐには届かなかった。

「聞いてた?」
「ああ、舞台のお祝いに、としか聞いてない。あとは……その、あんたの名前で作った」
「そうだったんだ……そう、だよね」

 セシル。
 いかにも清潔そうで、凛とした響きを持つその名前は耳障りがよく、インスピレーションが浮かんだと同時に急いでギフトを作ったのは数時間前。ようやく収まるべき場所に収まった、彼の名前のように清廉な百合の花束とその受け取り手を交互に眺めていたフリオニールは、伏目がちになり、かるい失望のようなものをのぞかせるトーンでつぶやいたきり、神妙な顔で黙ってしまった彼に、焦って言葉を続けた。
「その……気に入らなかったのか?」
「ううん、アレンジは素敵だし、好きだよ。ありがとう」
 また笑顔。
 首を横に振った彼は、君って才能あるよ、きっと、なんて軽口まで叩いた。
 だからその後ごく小さく続いた言葉はきっと空耳じゃないかと最初は思ったのに。
「兄さんは、
 セオドール兄さんは、ずるいよ……君にこんなこと言っても仕方ないけど」

 聞こえたのは贈り主の名前だ。
 何がずるいかなんてフリオニールの伺い知る所ではないけれど、今日みたいな場面に出くわすことはままある。遠方に住む父親からの子供への誕生日の花束を届けたときも。送り主が日付を間違えて注文した結婚記念日の花束を届けたときも。そういった時、花束を受け取る人々の言動にはいつも、今のセシルと同じように落胆が滲む。でもいつもどんな言葉をかけるべきかなんてわからないのだ。

「……それじゃあ、いい舞台を」
「ああ、ありがとう」

 結局他人のフリオニールに出来たのはそれを聞かなかったふりをして、そろそろいくよ、とその場を去りかけた彼に店のショップカードを手渡す事だけだった。