オルフェ

(ぼうっとしてるな、1セット目終わったぜ、お前が言ってた可愛こちゃん、もう来てんじゃないのか)
いすにすわっていたら、ファリスがなにいった。きがする。
ファリスにひきずられて、みせのすみのほうにあるせきにすわらせられた、きがする。

「おい!」

 声をかけられて、頭まで浸かっていた水の中から水面に飛び出た瞬間みたいに、それまでくぐもってあいまいだった周りの音がクリアになり、いつものスピードで流れ始めた。いつもの「あれ」がきたのだ。瞬時に理解し、おれはだらっとしていた姿勢をもうしわけ程度に直して、椅子の上で脚を組む。それから一言。
「びっくりするだろ。……へへーん、久々のデュオはいかがですか、フ・ァ・リ・ス様」
 小さなテーブルの上に身を乗り出して、今にも飛び掛ってきそうな勢いの共演者はむっとした顔をしている。
「いかがですかじゃねーよ、演奏終わったら席立たないでそのままでいるから、お前、腰が抜けちまったんじゃないかって客に見られてたぞ。心配させんな、バカ」
 あ~あ、と大きくため息をついてどっかりとソファにファリスは座り込んだので、おれは軽く肩をすくめて見せた。その時、注文もしないのにウエイターがやってきて、テーブルの上にグラスを置いていった。それを見て、目の前の彼女はレモンが添えられた透明な液体入りのそれをこちらへ一つと寄こすと、残りの一つに手を付ける。

「……ったく、バッツ、お前、いかれてる」
「知らなかったのか?」

 ファリスの言葉の響きに笑いが含まれていたので、おれもにやっとしてしまった。
 ついでにグラスを手に取ると、それをファリスのグラスとぶつけた。目の前のグラスの中の無色透明の何かをしばし見つめてみた後、それで舌を少し湿らせてみる。触れた部分がかっと熱く、痺れたようになる感じ。さわやかな風味もする。

「……ジンライム?おれ炭酸っぽいのがいい」
「そんなのはどうせ、そこのマネキンと飲むんだろ」
 おれは一瞬首を傾げたが、ファリスが指差した先を見て納得した。
 おろしたてくらいにぱりっと糊の利いた白いシャツに、ラインの綺麗な細身のテーラードジャケットを羽織った、ゆるやかに癖のある乳白色のロングヘアーの、端正な顔の男がカウンター席に座ってる。確かに見まごう事なきマネキンだ。上品なおべべがよく似合うけれど、ショーウインドウのむこうでおしゃべりしたり、勝手にお客さんとデートには行けない。もっぱら見られるばっかりの。そんなマネキンは、ぼおっとした顔で、良く泡が立ちそうな細身のグラスに口を付けていた。
 つまらなさそうにしているこの、バレエなんて踊るらしいプペちゃん――オニンギョウサンと遊ぶのは悪くない、むしろけっこういい気分だ。
 そのつくりものみたいな睫の先が劣情のあまりに濡れることなんて決してない、まして、壊れちゃったみたいに、はぁはぁいいながらおれにすがり、頬を上気させてる瞬間なんかどこにもないよ、なんてよそゆき顔して頬杖を付いているのがたまらない。何度だって壊れたがるくせに。もう少し見ていたい気もするけれど、ファリスに目線をもどして、なるべくしれっと聞こえるように言葉を続けた。

「ん、誰のこと」
「ごまかすなよ、さっきのグラス、あっちからだってボーイが言ってたぞ」
 おれは目を細めてにやにやする。ファリスは案外こういうことについてまっとうな価値観――1on1であり、発展性のある関係が好ましい――を持っている。別にステディってわけでもない相手が居合わせるたびに紹介なんてしてると色々と面倒なことになる。それに向こう<プペちゃん>にとっても煩わしい事でしかないだろう。

「はは、ファリスのファンじゃないのか」
「あんなマネキン見覚えない。おれっていうより、お前の好みっぽいけどな」

 それに対してコメントは差し控えて、にやにやした。まだ手元に残っていたジンライムをちびちびやるうちに、2セット目の時間になる。
 もう一度最初から。
 ライトがついて、椅子に座って、ファリスが目配せするから、おれは鍵盤に指を滑らせて、音の気泡が湧き出す水の中にダイブする。おぼれないように、客席の視線や息遣いを感じて、ファリスのギターのメロディを聞いて、かけあいをしながら、もつれそうでもつれないようにしながら演奏を進めて。

 楽譜がなくても、一度聞けば大体の曲は覚えていられる。おかげで何だって弾けるけど、時々頭がおかしくなりそうな心地がするのは、身体にストックした音が暴れだし、頭ん中がうるさくなるせいだ。ラジオで聞いた歌謡曲、汽笛、現代音楽、ニッポンのビデオゲームミュージック、クラシック、信号機の音、スタンダードジャズ、洗濯機が回る音、あらゆる音、音、音。だめだ、もう、おぼれる。
 何で肩で息なんかしてるんだろ、おれ。冷や汗もかいてる。目の前が、ぐちゃぐちゃだ。