オルフェ

「だからさあ、スコール、おれわかんねえよ、なんでそんなに親父さんのこと毛嫌いしてるのか」
「……別に嫌いじゃない、面倒だから、避けてるだけだ」
「まあ、でもそんなに悪い人じゃないんだしさ、もう少しお前のほうから歩み寄ってやれよ」

 ふとざわめきの中で聞こえてきた会話に知った名前を拾って、じいさんたちの隣、カウンターの一番端を眺めてみる。ギネスを飲んでいる顔に入れ墨の入った金髪のにいちゃんと、しかめっつらしながら7upの瓶に口をつけている向こう傷のあるきれいな顔のにいちゃん。その無愛想な顔にはやっぱり見覚えがあったので、目配せをしてみたら向こうも一瞬目を見張って、またむすっとした顔に戻った。どうやら気が付いたらしいので手を振って声を掛ける。

「よお、スコール、こんな所で何してるんだ? 今日はバイトはいいのか」
「バイトは休みだ。…絵を届けにきた」
「思ってること当ててやろうか?
(……なんであんたがここにいるんだ?)
 合ってる? そんな顔してるぜ」

 美大生のスコールとは彼が勤めるカフェバーで最近知り合った。
 エコール・ド・パリの時代の洗濯船近くのバーみたいに、貧乏するには事欠かないアーティストの吹き溜まりになっているその店の常連には知り合いも多いため、たまに自分も時間をつぶしに寄っていた。
 ある日、仕事までにはまだ大分時間があり、暇を持て余していた時のでいつも通り店に寄ってみた所、せっかくの作りのいい顔を愛想のない表情で台無しにしている、見覚えのない店員を発見したので少しからかってみたのだが、それがこいつだった。

『お兄さんはここでサービス売ってんの? それともあんた自身でも売ってるのか?』
『……どちらでもない、おれは労働時間と絵を売ってる』
『じゃああんた自身の方か、悪いな、そういう意味で言ったんじゃないんだ、ほら、ここの連中と一緒かって聞いたんだよ。チャンスがあれば自分を売り込もうとしてるやつら。なあ、どんなの描いてるの……』

 おれはその手の冗談に聞こえるように言ったつもりだったので、当然彼の機嫌は最悪になるはずだったが、その予想を裏切り、クールに切り返してきた所に好感を持った。それからはカフェに寄るたび、おれが一方的にちょっかいをかけたり、たまにお互いとりとめのない話をするようになった。
 
 スコールの隣の刺青男が大体いつも言葉の足りないスコールの言葉を補足した。

「スコールの絵を売ってるギャラリストがここの店のオーナーにスコールの絵を見せたんだけど、すっげー気に入っちゃって、それで店のために一枚書き下ろしたんだよ。こんなの」
 
 と、言って、刺青くんがおれに差し出したスマートフォンの中には、写真よりもずっと写実的に、血色よく描かれた子供を抱えて授乳させるラテン系の女性の絵があった。構図は聖母子像のようであるけれど、母親も子供も現代の人間であることが分かる。特定の個人を描いているのかと思ったけれど、子供も母親も顔の部分だけがすっぽりとない。その顔見ているとなんとなく気分がもやもやするのを感じた。
「ふうん……なんかむずかしい絵だな」
「……もう絵は渡したんだ。行くぞ」
「おい、スコール待てよ、この人知り合いなんだろ、紹介くらいしてくれよ」

 そうだそうだ、と口には出さず頷いて刺青君に同意する。スコールの眉間の皺がまた1ミリ深くなる。それが面白く、おれはもっと機嫌を悪くさせたくて、言葉を続けた。

「そうだぜ? そんなに焦って帰るもんじゃない、すっころんでせっかくの美人の顔にまた一つ傷が……なんてことになったら目も当てられな、」
 おれの言葉を遮り、スコールがうんざりしたようにおれたちを紹介する。
「……ゼル・ディン。**丁目のタトゥースタジオで働いてる。ルームメイト。
 バッツ・クラウザー、ピアニストらしいが本当の所はおれはしらない」
 そうそう、それくらい言ってくれないと。内心嬉しくってにやにやしながらも、一応反論しておく。

「そんな言い方はないだろ~ 今度大きい仕事決まったんだぜ、おハイソなホテルのバーでの演奏。しかもあの、ティナ・ブランフォードと隔日で」
 ティナ・ブランフォード――ジュリアード音楽院出。クラシックもコンテンポラリーも弾きこなす鬼才。有名なレーベルでCDを何枚も出してて、けっこう売り上げもよかったのにプロデューサーが薬中でリハブに入っちゃったとか契約条件がとか色々あって、最近別のレーベルに移ったっていう――。
 しかしその魔法の言葉も、門外漢には通用しなかった。
「バッツさん、悪いな、おれ、ロックとかメタルなら分かるけど……」
「もういいだろ、帰るぞ」

 不機嫌が頂点に達したらしいスコールは、カウンターに代金をゼルの分も置き、先に店の外へとつながる階段を上って行ってしまった。

「ちょ、待てよ、スコール!……あいつ悪い奴じゃないんだ、誤解しないでやってくれよな、その、ちょっと不器用なだけで」
「わかってる、わかってる」
「これ、おれのスタジオの名刺! 何かあったら遊びに来てくれよな」

 それじゃあ、と笑って刺青君あらためゼルも去っていった。

 時計を見る。まだ1時だ。
 まだ残っていたモヒートを飲み干すと、おれはマスターにラムコークを注文し、また辺りを見回す。右横に座っていたじじいたちの片方は席を立っている。たぶん便所だ。酔いつぶれてはいないはず。そして、左横のマネキン男はというと、カウンターに両腕を預け、電話中とは打って変わった、いかにも所在無さげで、ぼうっとした顔をしながら、時々グラスに手を伸ばしたりしている。
 この世には、夜には明かりを必要とする人間と、家に帰って寝床にはいりたい人間の2種類がいるって言っていたのはどこの誰だっけ?そういうことで言うなら多分この瞬間は、おれも、この隣の彼も同類のような気がする。カウンターでドリンクを作っているマスターを一瞥した後、おれは彼に声をかけた。