オルフェ

「もう電話いいの? 彼女?」
 おれの問いかけに気付き、彼はこちらを振り向いた。瞬間、そのすみれ色の目は見開かれ、口も小さくあいていて、まったく驚いたというような表情が整った顔には浮かんでる。ほんの少しの空白の後、気を取り直すみたいに彼は小さく笑った。
「ううん、友達。……ねぇ、ピアノ弾くって本当?」
 氏は手に持っていたグラスを置くと、身体をこちらに向け、バーカウンターに片ひじを付けて、その手に頭を預けた。バーカウンターの下の脚は組まれている。タイトジーンズに包まれた引き締まった脚はモデルみたいで、ますますマネキンらしい印象だ。
「そうだぜ、今度聞きに来る?
 なあ、さっきから気になってたけど、それ何飲んでんの。
 街中、仕事があればどこでも弾いてる」
「これは炭酸水。あ、きみの来たよ、はい、乾杯」
 グラスを合わせる。しらふのままひとりで金曜の夜の、人がごった返すバーに来るなんて、わざわざ退屈するために金を払っているとしかおれには思えなかった。女漁りや男漁りなら話は別だけれど。おれはラムコークに口を付ける。
 こいつはどっちだろう、退屈のために金を払う稀有な人間か、それとも欲求不満が募って盛り場を歩く人間か。言葉を待つ間にそんなことをつらつら考えていた。そして彼の白い首筋や大きいわりには優美さのある手を眺める。

「ねえ、バレエレッスンのためにピアノ、弾いたことある?」
「ない。何で?」
「……ぼくはそういう仕事」
 ヒュー!すごいじゃん。おれはじめてかも、バレエダンサーと話したの、なんて言いながらおれも目の前の相手のポーズを真似てバーカウンターに方肘ついて頭を預け、彼のすみれ色の目の中を見た。
「やだなあ、そんなに珍しい?」
 ああ、めずらしいさ、と生返事を返して、さらに観察を続ける。
 さっきのスコールも綺麗だけど、あいつの沈黙の中にはそれなりの葛藤――年相応の若さやつっぱりたい気持ち――を感じることができるし、つまりそれって人間的ってことなんだなあ、とまだ安心できる。何が言いたいかって言うと、中身がつまってて、まともな大人になりそうだって事。たぶんスコールは夜は早く家に帰って寝床に入ってしまいたい、むしろそのために生きているタイプの人間なんだと思う。
 何となくおれは確信する。多分目の前のこいつは、その反対だ。放浪するための目印になる夜の明かりが必要な人種。親しみやすいきれいな笑顔、寛いだ姿勢、表情、話振り、そんなものが、彼がこういう場所の空気にすっかり馴染み、親しんでいることを示している。
 おれは相手の組んだ脚のつま先に、軽く自分のつま先をぶつける。目は相手から逸らさずにラム・コークをあおってから自分の唇を軽く舐めると、彼に尋ねた。

「なあ、あんた、ひょっとして、ひまでしょうがなかったりするのか?
 それとも、どうしようもなく欲求不満でさ、
 誰かにめちゃくちゃにされたくて、こんなことしてるの」
 もしも後者なら。このマネキンみたいな人間が、どういう風な抑圧を抱えながらこんなふうに放浪しているのか少し興味があるし、どういう風にしたかったり、されたかったりするのか言わせてやりたい。そんな興味を起こさせる容貌を彼は持っているし、雰囲気もあるから。
 おれの問いを聞いても彼は何もいわなかった。ただもうとっくに、おしゃべりしていたときの、退屈を持て余していた時にとっておきの暇つぶしを見つけた! って感じの目の輝きは掻き消えている。今、彼の瞳は最初振り向いた時みたいに軽く見開かれている。唇もきゅっと結ばれて、かすかに震えているようにも見えた。
 氏は羽織ったジャケットから財布を取りだすと、何枚か紙幣をテーブルの上に置いて立ち上がる。それは炭酸水何杯かの代金にしては多かった。

「なあ、怒ったのか? わるかったよ、変なこと言って。あんたの時間を邪魔するつもりはなかったんだ、なあ、あやまるよ」
 バーカウンターを背にし、立ち上がった相手の方を見上げる。彼はおれが邪推したような人間ではなく、単に酒の飲めない、たまたま空いた週末の時間をにぎやかな場所で過ごしてみたってだけの人。なんだか肩透かしを食らったみたいだけど仕方がない。善良な人間の週末の夜を台無しにしちまうなんて、浮かれすぎたかな。
 でも、どうやらその結論は的外れだったみたいだ。
 未だに椅子に座ったままのおれの両肩に白い手が触れ、それから耳元に彼の頭が近づいて、何かささやかれる。

「別に怒ったりなんかしないよ。
 ……たぶん、両方だと思う」
 その言葉の後、冷たい手がほんの一瞬だけ自分の手に重なって、離れる。
 でも実際はそんな手のしぐさよりも、ほの暗い、だけども淡く期待の篭ったような目の方がずっと雄弁だった。
もしここで、今しがた店を出て行った彼を追いかけなかったらどうなるんだろう。ちょっかいをかけられて、少なからず期待してしまった後に放っておかれるなんて、みじめだろうなあ。
 どんな気持ちで彼が帰路に着くのか想像するのもいいけれど、多分彼を追いかけるほうがもっと楽しい。
店外に続く階段を上り、外に出た。若干外気が冷たい。
 
 曇っていた空が晴れた。
 ぽっかりと浮かんだ半月が照らす光の中で見たマネキン氏はどこか遠い星から落ちてきた少年、と呼ばれる頃はとっくに過ぎているだろうけれど、そのような少年と呼びたくなるように不安定で、よりどころのないはかない雰囲気を感じさせた。
 隣に立つ彼を見上げ、声をかける。

「なあ、どうしたい?」
「ぼくの部屋、この近所なんだ、来る?」
 疑問文を投げあっているのに、お互いどちらの問いにも返事を返さなかった。おれたちはもくもくとその「近所」まで向う。
 1時半を回っても、決して清潔というわけではないメトロの駅のホームは明るく、目に眩しかった。