オルフェ

 その日から彼とは何回か会って、そのつど取り止めのないおしゃべりをした後、だらだらとじゃれるみたいなセックスをしているけれど、いまだ彼の退屈や憂鬱、欲求不満の理由にはたどり着かない。組み敷いたその人を見ると、彼の青紫の目の中の瞳孔は大きく開いている。

「なあ、どんなことしたい?」
「どんなことでも」

 そう言うと、セシルはおれの髪に口付けた。
 おれも彼の肌の匂いを嗅ぎながら、鎖骨、胸、腹、と短くキスを落としていく。そして未だ布に包まれてる股間にも口付けて、何となく今まで聞けなかったことを尋ねてみる。
「そういえば、背中の傷ってどうしたの、バレエで?」
 そんな事で付くわけがないのは自分でも分かっていた。彼の中心のある場所に頬を寄せ、それから手で軽く掴んでみる。わずかに布が押し上げられているのが分かった。気になって一度身体を起こして、自分の股間も見てみると、おなじようになってた。
「ううん……その、昔、付き合ってた人に頼んで、 あ」
 ああ、なにか悪い予感がする。スコールじゃないけど、そういう面倒くさいのは今はパスしたい。横から背中を抱いて、首から始まるその傷に唇をよせたら、ぴくぴく震えた。触れるか触れないかくらいの手つきでもう一度、セシルの身体を、喉から下のほうへと――乳首を軽く掠めて、均整のとれた腹も通り過ぎ、ベルトのバックルを外してから、ボトムの下、下着の上から股間を――ストロークを描いて、順に触っていく。下着ごしに感じる熱に思わず笑った。なあ、もう勃っちゃってるの、相変わらずやらしいな、なんて耳元で囁いたら、バッツのも当たってる、って逆に笑われた。

 多分これからも自分は彼に愛してるとか、好きとか、言わないんだろうなあ、と漠然と考える。こんな風にくっついておしゃべりする関係は心地よい。たださわやかな友情というには、すこし何かが足りてない気がする。それは多分、根本的な思いやりとかそんなものかもしれない。
「……ねえ、バッツの触りたいな」
「そうか」
 じんわりと欲情と甘えが滲む声が聞こえた瞬間、反射的にそっけない返事を返していた自分に気付く。ベルトのバックルを外して、ボトムを脱ぐ。
「脱げよ」
 少し頭がぐらぐらしてくる。よけいなことかんがえすぎたかな。
 同じようにボトムを脱いでいるセシルの背中の傷をトレースするように、爪で引っかく。跡が付くくらい。綺麗な肩甲骨の上にも、まっすぐな背骨の上にも、いたるところに残された赤い跡をなぞる。この傷のせいだ、ぐらぐらするのは。腰に噛み付く。あ、と痛みの滲む声をセシルは上げる。
「機嫌が悪いの?」
「いいや」
「じゃあ、いつもみたいに、しようよ」
 でも今日はそれはパス。背中の傷を見て思ってしまった。返事は返さないで、セシルの脚に残っていた下着を脱がせ、自分もそれを脱ぎ捨て、どこかに投げてしまう。集中しないと、あっという間に追い付かれてしまう。
「……なんか変だよ、こわいよバッツ」
 ごめん、と言ってもう一度彼を後ろからゆるく抱く。どうかしている。
 しかし、怖いと言った時の、一瞬見えたセシルの表情はむしろ上気していたし、目だって輝いてはいなかったか。
「……ひょっとして、これのせい?」
 セシルは自分の背中に触れて、その傷を指さす。
「バッツも付けてみたいの?」
 身体をねじって振り向いた彼は笑っていた。
 いいよ、何したって。その言葉と共におれの裸の胸にすがってきたセシルの息は浅かった。
「……ひどくして、じゃないとぼくは」
「どうしてそんな事言うんだよ」
「覚えていたいんだ、誰かが触ってくれたこと。
 そうしたら急に誰も周りからいなくなったとしても、思い出してやっていける
 だけどおそろしいんだ、もしも全部忘れてしまって、何にもなくなってしまったら。  そうしたらもうだめになって、 だから、」
 彼がどんな表情を浮かべているのかは伺えなかったけれど、おれの肩を掴む指にはひどく力が入っていた。
「痛いよ、セシル」
「バッツ、お願いだひどくしてくれよ、 すごくひどいこと、して欲しいんだ、きみに」
 自分の中に溢れるさまざまな音や旋律で頭がパンク寸前のおれと、自分の中にストックした何かがなくなってしまうのを恐れる彼が、もしも耳元で囁く音や声を振り切ることが出来なかった時、自分たちを待っているのは発狂や自死なんだろうか。

「わかった、まかせとけよ、ひどくするよ……ひどくしてやるさ」

 なんとか上手く振り切ってやる。
 今はマネキンのふりをした自分の胸にすがる人が、一時でも人間に戻れるように、何もなくなってしまうなんてことを考えずに済むように、たくさん苛んでやればいい。耳元で鳴っていた黒いオルフェが途切れ、聞こえなくなる。