夢中人

 フリオニールは普段あまり夢――人生における目標とかの話じゃない、夜見る夢の話だ――を見ない。毎日頭を空っぽにして働き、寝る前には、以前付き合っていた人には「らしくないね」と笑われたこともあったが、一日を無事終わらせる事が出来た事に対し彼は感謝の祈りを毎夜短く上げる。それが毎日平穏の元に眠り、翌朝すっきり目を覚まして新しい気分で一日をはじめるための秘訣だった。
 余計な事を考えている暇は実際日中、そんなにない。早朝の仕入れ、その後の搬入と開店準備、仕入れた花の処理、水換え、ギフト作りと配達。それが閉店の時間まで続く。もちろんその膨大な仕事をフリオニール一人でこなしているわけではなかった。義兄弟(きょうだい)のガイも、両親から受け継いだ、ツタだらけの花屋”Wild Rose”の共同経営者だ。基本的には平日に一日、週末に一日、アルバイトに来てもらって、交代で休みを取る。
 週末の夜には、店の隣のダイナーか、日によってはもう少し先にあるカフェバーに寄って、知った顔があれば一杯引っ掛けながら最近の大リーグや他のスポーツ(つまりなんだっていいのだ)や最近見聞きした珍事について話をし、少しだけ穏やかな気分になったり、時にははめもはずす。さもなければ帰宅して、狭いアパートのリビングでスポーツ中継を観戦しながら、ソファーでビールを飲んで、ゆっくりと睡魔が訪れるのを待つ。

以前なら寝室のベッドの上で怠惰に寝転がりながら、昔の恋人から届いた手紙に目を通したり、彼から薦められていた本を読むこともあったけれど、なんとなく最近はしなくなっていた。なのにどうしていまさらそんな気分になってしまったのだろう。
 時計を見ればもう夜の2時だ。
 明日が週末で休みだとしても、普段の彼ならもうとっくに寝ている時間だ――休みの日の早朝はよっぽど二日酔いなどでダウンしていないかぎりは、セントラルパークに走りに行くのが彼の日課だから。それも精神をクリアにしておくための一つのテクニックであり、実益を兼ねた趣味だった。
 実は、ひさしぶりに、昔の恋人に薦められていた本を読んでしまった。
 それはとてもだらだらとした私小説であり、浮浪者のような主人公が諸国を放浪する話だった。生まれてこのかた国を離れた事のないフリオニールにとって、それらのページで起こることは全て遠い出来事であったけれど、そのひとつひとつが彼の胸を躍らせた。しかし時にその話は時々ひどく彼を悲しくさせる。
ただあてどなく旅をつづけている主人公は誰かと出会い、またどこかの土地へとふらふら流れていく。連れる羊もいなく、故郷を遠く離れたたった一人のノマドはどんな気持ちなんだろうと想像するたび、とても孤独なきもちになる。さようならはフリオニールの生活にも溢れているから。でも一々それを数えるほど、センチメンタルでいるなんて、性に合わない。人生はもっと単純でいい。
 こんな本を読み返してしまった原因は分かっている。
 リビングでバドワイザーを飲んでいたら、いつのまにか短い夢を見ていたのだ。それはとてもやさしい、昔の恋人の夢だった。フリオニールはかぶりを振る。もう眠らなくては。せっかくの休日なんだから。天気予報は晴れ。絶好のジョギング日和だ。

 ジーンズとパーカーを脱ぎ、フリオニールはアンダーウェアのみになって、愛しいシーツの間に潜り込む。この世で一番彼が安らげて、天国に近いと思っている場所。ベッドの上で読書していたせいか、シーツはほのかに暖かかった。読書灯を消せば、加速度的に眠りの中へ落ちていくのが分かった。

(ねえ、ぼくのこと、どうおもっているの、フリオニール)

 暗い寝室のドアの前に立ち、そう彼に尋ねた、フリオニールと同じくアンダーウェアだけを身にまとっているその人は、相変わらず作り物みたいにきれいで、でも少し今日は少し、悪く言えば緊張感がない、柔和な笑い方をしていた。

(ねえ、どんな事したいって考えてた?)

 突然耳元でそう囁いたと思えば、青年は背中から腕を回してフリオニールを抱いた。自分は彼を確かに知っている。けれど彼は自分の名前を知らないはずだ。そして、さっきまで自分は確かにシーツの間にいた。そのフリオニールが今、ベッドサイドに立ってるなんて、こんな状況は夢でしかない。なんだか今日は眠りが浅いみたいだ。

 いま、自分を抱く、ふわふわとした現実感のないこの人はこの間配達先で出会ったバレエダンサー。名前はたしか、そう、セシル。音がきれいだから覚えていた。小さくセシル、と呼ぶと、彼はフリオニールを抱く腕に力を入れ、しっかりと抱きついてきた。うなじにくちづけられたので、もう一度、今度はよりはっきりと、彼の名前を呼ぶ。セシル。
 その瞬間、二人はフリオニールが眠っていたベッドに音を立てて倒れる。

 腕の次は脚。軽く汗ばんだ感触の、よく鍛えられた脚がフリオニールの腰に絡みつき、二人の体はより密着する。耳元に聞こえる、自分を抱くセシルの息は上がっていた。一体どんな表情してるんだろ、そんな事を考える間にもセシルの冷たい手がフリオニールの裸の胸をまさぐり、そのまま胸を通り過ぎてアンダーウェアの上まで伸びていく。

(フリオニール、どうしてほしい、って言わないと分からないよ)

 いたずらっぽい笑いを含んだ声ににじむ情欲。ああ、本物のセシルもそんなものを見せる瞬間があるんだろうか、という疑問が一瞬フリオニールの頭によぎったが、すぐにそれも通り過ぎていく。
 腕の力が緩んでいる隙を付いてセシルを押さえつけ、今度はフリオニールが彼の上に覆いかぶさる。
「……おれは、あんたがなんであんなことを言ったのかが未だに気になってるみたいだ」
 それを聞いたセシルの表情はとぼけたものだった。
 あんなこと? ねえ、きみはなんの話をしているんだい? それよりも今は二人で気持ちのいい事をしようよ。
そう言うとセシルは、フリオニールの顔に彼の整った顔を近づけ、小さく、甘えがのぞく声で「キスをしてよ」とせがんだ。

 ああ、この人をおれの手でどうにかしてしまいたい。そんな苛烈な欲望を膨らませながら、しかし胸の底に名づけようのない空しさが広がっていくのもフリオニールは感じていた。セシルの小さく形の良い唇に、柔らかく唇を押し当てるだけのキスをする。それに返事をするように同じキスがセシルからも返ってくる。ああ、おれはこんなことが彼としたかったのだろうか。何も考えずに身をゆだねてみたい。そう、そっとフリオニールは目を瞑り、セシルの頬に両手を当てた。
 唇を割って、舌を入れると、待ち構えていたように彼はそれを吸ってくる。顔を離してもう一度。その次は舌を突き出しあってじゃれあって。セシルの表情が気になり、フリオニールはそのまぶたを開いた。
 口付けを交わす間にもセシルは決して目を瞑っていなかった。彼の目元は笑っていた。すっかり欲に蕩けたすみれ色の目――本当はそんなふうであって欲しくないと思っているそれ――が、フリオニールの琥珀色の瞳をしっかりととらえている。
 音を立てて交互に舌を吸い合い、快楽を貪りあい、興奮を感じてしまうさなかにあっても、フリオニールの中のわだかまりは消えなかった。
 ついにはじゃれあうような楽しい口付けもフリオニールからおしまいにしてしまう。組み敷いて、ベットに押し付けていたセシルから離れ、彼は立ち上がる。

(どうしたの、フリオニール? やっぱりぼくじゃだめなの? がんばったんだけどな、ふふ)

 ベッドの上で膝を抱えて笑うその人のかたちはやはり美しかった。しかし、その人を憤慨させることになったとしても、フリオニールは言わずには言われなかった。

「セシル、おれはあんたと話がしたい。あんたの兄さんの話でもいい。ささやかな夢の話だっていい。
セシル、お前はきれいだよ。でもおれが会いたいのは本物の、さびしそうな、舞台の上で生き生きと死んでるセシルで、気楽そうな、まがい物のあんたじゃないんだ」

 それを聞いたイミテーションのセシルは、上手くいくといいね、ゆっくり休んで、フリオニール、と言うが早く、霧のように掻き消えてしまった。後にはほのかに花の香りがした。フリオニールは呆然と、立ったままでいるしかなかった。ああ、これ以上あいまいで、どうしようもない夢の中にいたくない、おれの目よ、覚めてくれ。

 暗闇の中でフリオニールが目覚めたると、まだ部屋には花の匂いが満ちていた。原因にはすぐにたどり着く。読書なんて久しぶりだったから、ついでに昔の恋人にもらったきりだった香を焚いた残り香がまだしているのだ。ぱたん、と寝返りを打ちながら、フリオニールは自分の体の違和感に気が付いた。
「ちくしょう……」
 あんな夢なんか見たせいだ。シーツをめくると、アンダーウェアの布を興奮して頭をもたげている自分自身が押し上げていた。
 枕元を見ると、午前6時。少しは眠れただろうか。ほんとうなら着替えていますぐにでも走りに行きたい。でもまずこれをなんとかしなければ。ハイスクールの男子学生でもないのに。すっかり情けない気分になりながら、フリオニールはバスルームへ向かう。

 誰の顔がいいだろう。
 昔の恋人か、昔バーで声をかけてきたそれなりに整った顔の酔っ払いか、それともセシルか。
 迷ったあげくに夢のつづきを見ることをフリオニールは選択する。できれば少し陰鬱そうな、あけすけではない美しい彼がいい。
 そんな彼が自分のものをありえない熱心さで舐め上げたとしたら……その甘美な想像に体が震えた。暖かい口腔に包まれて、やさしく愛撫されるのはきっと悪くない気持ちだ。
 最初はゆるく先端を触っていた手を徐々に竿の方に伸ばして、それからゆるやかに上下にしごく。

 想像の中でのセシルは喉の奥まで自分のものを銜え込むと、若干えづきそうになりながら、頭を大きく動かしている。その妄想にあわせて、フリオニールの手の動きもその瞬間を迎えるために早くなる。
 ああ、おれもうだめだ。
 いいよ、全部飲ませて。
 そんなやりとりを想像した後、フリオニールは自分の手の中に吐精していた。

 手の中のそれも、床に散らばった飛沫もきれいにトイレットペーパーでふき取ると、達した後の脱力感とむなしさが一気に訪れる。
「なにしてるんだろ、おれ……」
 そのままシャワーカーテンを開け、朝風呂を済ませたら準備を整えて、走りに行こう。
 たまには考え込んでしまうのもいいし、何にも考えられないくらいばかになってだれかとじゃれあうのだっていい。しかし何よりもフリオニールが望んでいるのは、自分が仕入れてくる花を買ったり、贈られたりした人が単純にその花の美しさに、なぐさめや素朴で力強い生命力や生きる喜びを感じてくれる事、そしてそれのために単純に日々の仕事をこなしていけることだった。

 それでもたまに、夜の短い、神様への報告みたいな祈りの中に、もう一度、あのばらの精みたいに可憐な青年に会って、話ができますように、と付け加えてみる夜もあるのは、もちろんフリオニールだけの秘密だった。