Killing me softly with his song

「よう、スコール。調子はどう?」
「……可もなく、不可もない。あんたは?」
 先ほどまでクラウドが座っていた席に彼――バッツ・クラウザー、ピアニストが座る。もっともバッツが演奏するところをスコールは見た事がない。だからピアニスト、らしい、としかスコールには言えなかった。

「悪くはないぜ、今のところ。なあ、香港フィズくれよ」
「うちにそんなものはない。大体なんだ、それは」
「紹興酒とジンジャーエールのカクテル。言ってみただけ。じゃあ、ホットワイン作ってくれよ、シナモン入れて」

 彼の(実年齢なんか知ったことではなかったが)、いちいちふざけた、年相応ではなさそうな態度に、いつもスコールは調子を狂わされていた。無視しておけばいいのかもしれないが、何かそうできない雰囲気もあった。つまりいつの間にか彼のペースに乗せられてしまうのだった。

「どうしてそうなる」
「なんかさ、よくおやじが飲ませてくれたんだよ、寒い夜に。フランスあたりじゃ水より安い、とか言って。だからさ、頼むよ」

 片目をつむり、なっ、この通りだからさ、と言われてしまえば、もう何も言わずに小さい鍋を掴んで安いワインを暖めはじめるしかない。背中を向けたスコールに、あ、と間抜けな響きのバッツの声が届く。
「そうだ、作ってるあいだの曲、弾いてやるよ。お前、おれのこと、ピアノ弾きかどうか分かったもんじゃない、とか、言ってただろ、前に」
「別にそこまでは言って……」
 振り向くと、たまに音楽家くずれが弾いていく、決して上物ではないピアノの蓋を開けるバッツの姿がそこにあった。

 砂糖を加えて小鍋にかけたワインの中に、オレンジ、シナモン、クローブを入れていく。8年生を終わってから留学していて、最近帰国したスコールの義姉(あね)もたまに作ってくれたのを思い出したのだ。ただしヴァン ショーと呼んでいたけれど。
「このピアノ、音ガタガタだな、……調律とかしたほうがいいぞ」
 文句を垂れながら、鍵盤をリズミカルに叩くバッツの演奏は、確かに場慣れしている雰囲気はあった。クラシックよりもジャズピアノのほうが得意なんだろうか。そんな事を考えつつ、軽快に奏でられる曲を聴き、演奏をするその人の後ろ姿を見つめる。若干鬼気迫るようなものを感じたのは気のせいだろうか。
 1曲目が終わると、それに続けてもう1曲弾きはじめた。気が付けば他の客もピアノの方を気にしている。最終的には3曲の、どうやらジャズらしいなにか、を彼は弾いてのけた。バッツがピアノ椅子から立ち上がると、拍手が上がった。何人かはチップを彼のポケットにねじ込んだ。
 そのうちにピアニストはカウンターに戻ってくる。そして何事もなかったかのように、どうだ、スコール?と、まるで褒められたくてたまらない子供みたいなまぶしい笑顔を浮かべるのだった。

「……何の曲を弾いたんだ」
 両手に持ったマグカップの中のホットワインを、息を吹きかけて冷ましているバッツを横目で見ながら、スコールは壁に背中をあずけていた。
「お前、本当にやる気のない店員だよな。クビになっちゃうぞ。……スヌーピーだよ」
「スヌーピー!?」
 なんだよ、知らないのか、ばかにするなよスヌーピーを、なんて言って、にやっとした時のバッツの顔といったら!無性にいたたまれなくなって、壁を叩くと、今度は、ああ、だから壁にあたるなって、美人が台無しだぞ、なんて奴は追い討ちをかけてくる。
 ああ、いま、どんな顔をおれはして――。
「好きだったんだよ。まあ、子供向けのアニメの曲だけどさ、今聞いてもちゃんと出来てるよ。ルーシーとライナス、サンクスギビングのテーマ、それと『バレンタインだよ、チャーリーブラウン』のテーマ……大丈夫か?」
 それは案外なまじめさであり、純朴さだった。バッツの声に、スコールは顔を覆っていた手を外し、かぶりを振る。
「ああ……悪かったな、ピアニストかどうか分からない、なんて言って」
「別にいいよ、そんなの。これ、おいしいな」
「……それは良かった。おれは、仕事を、してくる」
 スコールがカウンターを離れたのは必ずしも、そろそろ1杯のコーヒーでたむろしているやつらに声をかけたり、下げ物をするためだけではなかった。 どんな時でも、バッツといるとスコールは調子を狂わされてしまうのだ。人を食ったような発言が飛び出すかと思ったら、痛いくらいに真剣だったり、あどけない笑顔を浮かべてみたり。これ以上一緒にいると、頭がおかしくなりそうだ。
 そうじゃなくても、はじめて会った時の台詞から、いろんなことを、青少年らしいありかたで、意識してしまうっていうのに。

 ああ、頼むから、早く帰ってくれ。しかし、今のところその願いが叶う気配はカウンター周辺には見られなかった。スコールはトレーを持って、空いたテーブルの上の皿を片付けながら――本日何度目か数えるのも疲れた――ため息を、つく。