Killing me softly with his song

 冬の夕方は日が短い。あっという間に寒くなってきてしまう。気に入りのファー付きジャケットもこの季節の防寒には少し心もとなく感じられた。手袋で守っていてもなおかじかむ両手に息を吹きかける。
 電飾で飾られたカフェ・バー「ミッドナイト・エクスプレス」の窓からは、今日も変わらず店内にたむろする客たちが見える。「ミッドナイト・エクスプレス」は安心の深夜営業。金がないから適当に何か食べさせてくれという注文にも答える顧客本位のスタイル。金がないけれど、何かツケで飲ませてくれという芸術家くずれには、作品を担保に飲ませてやる。
 おかげで「ミッドナイト・エクスプレス」の看板の上に、小さく「ギャラリーカフェ」という電飾文字も付け足すはめになったのを、最近スコールは聞いた。手垢が付いてくすんだ真鍮のドアノブに手をかけ、彼は仕事場へと入っていく。

 バックヤードからエプロンをつけて飛び出し、いざ店内を見渡してみれば、見慣れた顔ぶればかりである。すでに何かしかのものを注文し、たいらげた後のようで、またすぐに立ち去る気配もなかった。
 スコールはカウンターに入りマグカップを取ると、コーヒーメーカーから自分用にコーヒーを注いだ(もちろんミルクも砂糖も入れて。胃潰瘍になる気はまださらさらなかったから)。壁にもたれてそれを飲んでいると、近くから声がかかった。
「貰えるか」
 おそらくワックス等を駆使して作り上げられたモードっぽい髪型のブロンドの彼は常連だ。黒いハイネックの太リブセーターに、ゆったりとしたシルエットの同色のサルエルパンツ。黒ぶちめがねの奥の青い、憂えているような瞳はスコールにではなく、手元の新聞に向けられていた。
「ああ」
 彼が何も言わない限りは、深煎りのコーヒーにウォッカと、トースト用の付け合せに冷蔵庫に仕舞ってあるマーマレードを入れて出す。前にそうしてくれ、と言われたから、そうするだけだ。何をしているのか、と聞かれたのは確かその時で、自分が彼が名画座の映写技師で、クラウド・ストライフという名前であるのを聞いたのもその時だった。確か。ロシアン・コーヒーを出すと、一瞬だけスコールの方を彼は向いたが、またすぐに視線を新聞に戻す。逆さ文字でタイトルを見ると、『芸術』のセクションを読んでいるようだった。なにを熱心にながめているのか気になり、尋ねた。

「最近、何かいい映画はあるか?」
「善し悪しなんてあんた次第だろ。どの映画だって一カットくらいは美しい瞬間がある……あんた美大生だったな、この写真展は見にいったのか?」

 クラウドが指差した先には「博物誌」というタイトルの写真展の批評とその展示風景が掲載されている。出来ることなら行きたくなかった。写真家の名前はラグナ・レウァール。
「ああ……まあ、それなりだった。初の回顧展らしいからな」
 思い出す。棺桶の中に入っているそれに口付けする、背の高い男の――作家本人だというキャプションの付いている――ポートレート。自分の置かれた状況なんてこれっぽっちもわかってない、何のパワーももっていない裸の子供の写真。そして死体や、遠い国の女たち、セレブレティーたち。
「そうか。あんた、バレエは見るか」
「いいや。それがどうかしたのか」
「なんでもない、ただ、この間までコンテンポラリーバレエ団のドキュメンタリーをうちの館で流していた。それで……実際に見てみようか、考えているんだ。しかし今は、クラシックのレパートリーの抱き合わせで少しやってるだけみたいだな、モダンは……」
 クラウドが指差した先を見ると、この街のバレエ団が現在上演中の舞台の紹介の記事が掲載されているが興味はなかった。演目に上がっているタイトルも見覚えのないものばかりだ。せいぜい見覚えがあるのはウエスト・サイド・ストーリーくらいだ。というか、これってバレエなのか?思わず首をかしげた。
「すまない……おれ、全く分かんないんだ」
「実は、おれもだ」
 そう言ったクラウドの顔がおどろくほど素朴であり、笑顔であったことに心底驚いたが、同時につられて、スコールも口元を和らげた。
「……再来週からショートフィルムの特集をする。興味があれば、来たらいい」
 コーヒー2杯分の代金とスコールへのチップを置くと、クラウドは、世話になった、という言葉を残し、出口へと向かっていった。去っていくクラウドを見ていると、ふいに、彼と先ほどまで話していた写真展の展示風景がフラッシュバックする。
 報道写真家から報道の付かない写真家に転身したラグナとは、母親が死んだ後に祖父母がスコールの親権を取ったため、久しく会うことがなかった。彼の事を考えると自分でも表情が険しくなるのが分かる。しかし。
 スコールは大きくため息を付いてから軽く床を蹴る。こんな顔していると、また、いつかみたいに、客に嫌味を言われかねない。こんなふうに。
『お兄さんはここでサービス売ってんの? それともあんた自身でも売ってるの?』
 どちらでもない、おれは労働時間と絵を売ってるんだ。この手の冗談にスコールは慣れていた。きれいなスコール。かわいいスコール。きっと男好きのする奴に掘られながら、小遣いもらってるに決まってるさ。でも実際そんなこと起こるわけがないのは自分がよく分かっていたので、聞き流していた。だからサイファーとくだらないことで喧嘩して、お互い額に傷を付けた時には、感謝こそすれこそ、あいつを恨んだりなんてするわけがなかったのだ。
 すっかり考え込んでしまっていたせいか、その、どうしようもない、飄々とした客がドアベルを鳴らし、店に入ってきたことに、目の前で声をかけられるまでスコールは気付きもしなかった。