パ・ド・ドゥ

「おつかれさま」
 カーテンコールが終わり、舞台袖に下がると、パートナーのローザに肩を叩かれた。セシルも口の両端を吊り上げて微笑んだ。緞帳はすでに降りている。その向こう側ではゲストが帰り支度をしているところだろう。今日もその中にセオドール――セシルの兄はいない。

 楽屋へと戻る廊下を舞台の上での恋人と歩いている。幕が上がればセシルはセシルではなく、ロミオその人であるし、もちろんローザもジュリエットであり、恋人である。
 才能に溢れ、これからの時代を先導するであろう未来を嘱望されているバレリーナと組む事を恐れる、臆病な気持ちがどこにもなかったとは言えない。ただ、そんな恐れを舞台の上に持ち込む事は踊り手としての矜持が許さなかった。だって観客は、舞台の上の人間のキャリアが浅かったからといって、それを加味した見方なんてしてくれないのだから。
 ただゲストが物語・曲・振り付けその他目や耳で得られる刺激のすべてを受け、幕が閉じるまでの短い間、日常から離れて恍惚となれるよう、一回の公演を踊りきる。セシルはそのために舞台の上でジュリエットと何度も出会い、日々死んでいる。
 そんな事を繰り返すうち、組み始めた当初の気後れも段々と忘れるようになってきた。ローザにも前よりずっと信頼されている気がしていた。
 だから彼女の口からその言葉が飛び出した時は、それがあまりに唐突で、返すべき言葉が中々出てこなかった。

「ねえ、セシル……わたしと組むのはつまらない?」

 楽屋の前のドアにローザはもたれて腕を組み、さらっとそんな事を言ってのけた。まるで彼女の演技に対するアドバイスを求めるみたいな、世間話をするくらいの気楽さを装って。そのように急にセシルの目の前に降って来た問いは驚き以外の何物でもなかったし、答えなんてノーにきまっているのに。
「そんなわけないじゃないか、
むしろぼくは……ぼくこそ君に釣り合わないんじゃないか、って今でもたまに……」
 どう対処したものか。そう考えながら若干の自嘲と共に答えを返せば、ローザはあまり浮かない顔をして言葉を続けた。
「別にあなたのテクニックに不満があるわけじゃない、
 わたしはあなたの正確で繊細な踊りが好きよ。二人でうまくやれてるって思う。
 でも、ねえセシル……最近、気になることがあるの? 少し上の空じゃない?」
 そこまで言うとローザは軽く見開いていた目を伏せ、小さく息をつくように「責めるつもりじゃなかったの、だけど心配で」と言葉を続けると、いたわるようにセシルの腕にそっと手を伸ばした。

 ペアを組んで半年、ローザに置いていかれないように、彼女の演技を台無しにしないように、またそんなプレッシャーに負けないために舞台の上では無心に、どの場面も集中して演じていたはずだった。むしろ最近は必死さや硬さが抜け、自分では前よりもいい演技が出来るようになったつもりだったばかりに、今目の前のパートナーから突きつけられた言葉は痛かった。
「ごめん、その……慣れてきたって慢心していたのかも。こんな大役、初めてだっていうのに、」
「……違うの! そういうことじゃなくて……どう言ったらいいか分からないけれど、今のセシルは誰かのロミオの真似をしてるみたいで、本当にそれはあなたの踊りたい踊りなんだろうかって感じる時があるの。
 あなたらしい、他の誰にも出来ないロミオが見れるんじゃないかって、組んだばかりの頃、実はね、わたし、すごくわくわくしていたし、実際その通りだと組んで思ったの」
 責めるような様子でもなく、むしろそれを話すローザの声には励ますような優しい響きがあった。そして何より、作品への、踊りへの情熱があった。まだ見ぬものを期待し、輝く緑の瞳。それが自分に向けられている事は誇らしく、また正直、恐ろしくもある。
 「ごめんなさい、変な事を言って……ゆっくり休んで。ね、セシル」
 そうして平素の彼女とは少し違う、年若い少女のような軽やかさで一通り話しきった後のローザは何となく照れくさそうに見えた。
 おやすみなさい、と声がして、目の前で彼女の控え室のドアが締まる。扉一枚隔てただけなのに。廊下に一人残された途端、何とも言えず、底冷えがする気がした。

 自分の楽屋に戻ると、衣装を脱ぎ、セシルは化粧台の前の椅子に座り込み、鏡の中の自分を見た。どっと疲れたような気がする。冴えない顔。舞台の後、それほど高揚しなくなったと気付いたのはいつからだったろう。頭を垂れながら長く息をつく――ローザに何のことを言われたのか検討はついている。
 舞台の演技の出来にいわれのない焦燥感を覚えるようになり、最近また見始めた、擦り切れるんじゃないかというほど見たビデオテープの中の、父と母のパ・ド・ドゥ。そのテープはセシルにとってとっておきのおまじないだった。
 未だ決してそれをセシルの兄は見ようとはしない。もちろんセシルの踊る姿も。
化粧台の上に置いておいた百合の花束が目に留まる。夕方花屋の店員が持ってきた物で、差出人は兄だった。

 バレエダンサーだった両親が交通事故で他界する以前の事をセシルはほとんど覚えていない。すでに大きくなっていた兄は寄宿学校に入っていたため、叔父に引き取られた自分が彼に会えるのは感謝祭かクリスマス、あとは夏季休業のうちの何週間か、それだけだった。
 記憶にない父と母の像を埋めるため、残された膨大な量の公演のビデオテープを弟が片っ端から見ている事をセオドールは知らなかった。それに憧れてセシルが近所のバレエ教室に通いはじめたことも。
 ある夏の日、セシルの部屋に山積みにされたビデオテープを見た兄は、最初それが何だか分からないようだった。

『父さんと母さんのこと、あんまり覚えてないけど、これ見てると二人とも確かにいたんだな、って思うんだ。
 ……ぼくも、二人みたいに踊れるようになりたい、
 ほら、バレエシューズ、買ったんだ。
 まだターンだってろくに回れないし、踊りも中々覚えられないけど、……どうしたの、兄さん?』

 セシルの話を聞く兄の顔はいつになく険しかった。最後には何も言わず彼は部屋から出て行った姿が忘れられず、セシルはその夏、それ以上バレエの話を兄にすることは出来なかった。叔父と共に住んでいる家を出てバレエ学校に行く事を目指しはじめた事も。
兄がそのセシルの決断を知ったのは、16才でセシルが学校の試験に受かり、叔父の元を離れることが決まった後だった。

 支度を済ませ、明かりを消して部屋を出ようとした時、兄が贈ってくれた花束を忘れそうになっていた事に気付く。化粧台の上のそれをつぶさないよう、軽く抱えると、芳香がした。
 父と母が確かに生きて踊っていたということ事、そして同時にもう二度と踊ることはないという事実を直視しない兄。

――きっと疎ましく思っているんだろ、二人の影を追いかけ続けて公演の度チケットをよこすぼくの事だって。兄さん。

 バレエ学校の卒業公演の頃から変らず届けられる花束には最初こそ喜びはしたものの、今ではそんなものを欲しがっているわけではないと自分で気がついてしまった。

「……やんなっちゃうよ」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやき、今度こそ部屋を出る。
と、花束から足元に茂みに咲くピンクの薔薇の絵が描かれたショップカードが落ちた。セシルはそれを拾い上げると一瞥し、外套のポケットの中に仕舞い込み、小さく笑った。

 劇場の最寄の駅からメトロに乗って自分の住むアパートのある地区にたどり着いた時には、もうすぐ日付をまたぐという頃で、辺りに人はほとんどいなかった。
 この道は毎日通っているのに、花屋がある事なんて気にもしていなかった。

――ここだったのか。

 こじゃれた当世風の花屋が増えている中で、その蔦に壁を一面覆われた店は、隣接する小さなカフェのように、ある時代に留まり続けているような印象を与える。煤けた看板のWild Roseという金文字も経年変化を感じさせるものだった。

 夕方花を届けに来た彼とも知らない間にすれ違っていたかもしれない。

 外套からセシルは青年が渡したショップカードを取り出し、そこに看板と同じ店名があるのを認めて、また少しだけ笑った。