パ・ド・ドゥ

 ――どこかで彼を見たことがある。多分、いや確かに。

 白いバンを駆り、店へと戻る間にフリオニールは突然降って沸いた既視感を何とかしたい一心で、最近の記憶を振り返っていた。
 まさか近所で見かけたんだろうか。地下鉄のホームか、行き付けのダイナーか、それとも休みの日に走りに行く公園か。一つ一つの可能性を考えてみるけれど、そのどこにもあの彼は見つけられなかった。
 店の2ブロック手前にたどり着く頃には、もう袋小路に陥った思考を手放し、そういえば最近妹に会っていない、なんて事を思い出していた。
 最後に自分の部屋で会った時、彼女はすごく興奮していた。なんたって、ずっと代役をしていた舞台の演目でレギュラーを勝ち取ったんだから。
『ねえ、聞いて! 決まったの、ついに』
 きっと見にきてね、がんばるから。いつかこれにも載るかなあ、私の写真。そういって彼女が見せてきた雑誌の写真には、そのミュージカルの広告が載っていたっけ。
 こんな風にふと誰かを思い出す時は、近いうちにその人に会える前触れだったりする。
 だから店に戻り、閉店作業中に叩かれたショーウインドウの向こうに妹の妹のマリアが現れた時も大して驚きはしなかった。
 入り口の鍵を開け、彼女を店内に招き入れる。

「フリオニール、お疲れ様」
「ああ、どうだ、調子は」
「まあまあってとこかな。そりゃ、プレッシャーはあるけど、そこはね、なんとか」
 はい、これ、と近くのデリの惣菜とドリンクのカップの入った紙袋を店のカウンターに置くと、大きく両手を伸ばし、マリアは伸びをした。
「兄さんの今やってる舞台も向かいの通りの劇場でしょ。やっぱ気になるのよね」
 マリアとフリオニールの兄であるレオンハルトは演出家だ。今の所、マリアの出演する舞台も彼女の兄の舞台も打ち切にはなっておらず、順調に上演回数を伸ばしている。
「そうだよな……あ」
 マリアが差し出したコーラを受け取った時にふっとあるイメージが頭を過ぎり、思わず調子はずれな声を上げてしまった。
 すみれ色の目をした美しい人の、取り繕った口元と暗い目元。
 ああ、そうだ。いいかげん、この落ち着かない感じ――正体不明のデジャ・ヴュをなんとかしてしまわなければ。

「そういえば今日、バレエの舞台に花束を届けたんだ。
その受け取り手、どこかで見たことあるような気がして、何だか気になっていて」
「ふうん」
 カウンターに腰を預けながら、マリアはミネラルウォーターの瓶を傾けている。
「セシルって名前だったんだ、その人。背はおれと同じくらい。ほんとにキレイなプラチナ色の髪をしてて、こう、嘘みたいに整った顔で……」
 眉間に皺を作りながら、セシル、セシル、と何度か繰り返すうちに、思い当たるところがあったのか、不意にマリアの表情が明るくなる。
「ねえ、それってローザ・ファレルの新しいパ・ド・ドゥのパートナーじゃない?
 大抜擢されたっていう」
「パ・ド・ドゥ? なんだよそれ」
「二人組みで踊る踊りよ。
 ローザ・ファレル、若手では今結構注目されてると思うわ。 ローザンヌで何年か前にスカラシップ賞取って今のバレエ団入団したんだけど、その後すぐに主役張るようになっちゃったんだから、すごいよね。
 振りの正確さと末端まで神経の通った一つ一つのポーズの美しさ、情熱的な演技、そして誰もが目を引く容姿!……なんてちょっと揃いすぎじゃない?
 その新しいパートナーの評判も悪くないみたいだしね。何かで写真見たけど、なんというか、あんな綺麗な男の人いるんだ、ってちょっとショック。わたし、妬けちゃいそう」
 艶のある黒髪の妹が話す言葉を聴きながら、フリオニールの意識は途端に、数ヶ月前の自分の部屋に引き戻される。

『レギュラーだなんて! まだ信じられない、……でも本当に良かった』
『ああ……そうだな、おれだって嬉しいさ。しっかりやれよ!』
 そんな会話を交わしながら、彼女が手渡してきた雑誌に掲載されたミュージカルの広告――マリアがメインキャストとして出演することになる作品――の隣のページ――写真付きのレビュー欄、それを何とはなしに追っていた。コンサート、美術展覧会、ストレートプレイ、ミュージカル、さまざまなジャンルの催しについての評論が載せられた紙面の中で、その写真はフリオニールの目を引いた。

 そこにあったのは、静謐さと、心なしか幸福感を漂わせた表情で事切れている青年と、彼にすがり、苦悶の表情を浮かべながら日も世もなく泣き叫ぶ少女の姿だった。

 二人を引き裂いた運命への怒りや悲しみを全身にたたえているような少女の姿には鬼気迫るものがあり、それももちろん素晴らしかったけれど、むしろフリオニールが気になったのは別のものだった。少女が縋る事切れた青年――どこまでもつくりものめいた容貌の彼は、演技だとしてもあまりにも安らかに、どこか生き生きと死にすぎているように感じられたから。
 写真の横に『ロミオとジュリエット』という文字を認めたところで、彼は雑誌から目を離した。

「分からないけど、そうかもしれないな」
 口ではそういったものの、半ばフリオニールはそれがデジャ・ヴュの正体であることを確信した。一人納得するように頷いたら、それを見るマリアがにやにやしているのが目に入る。
やっぱり綺麗だったんだ、なんて聞かれたけれど、その容貌を思い出そうとしても、頭に飛び込んでくるのは去り際の落ち込んだようなセシルの姿で、フリオニールは言葉に詰まる。
「どうなのよ」
「……なにが」
「フリオの好みだった? やっぱり実物も美人なんでしょ、セシル・ハーヴィ」
「おまえなあ……、あいつ、男だぞ」
 からかうような妹の口調に、頬が急に熱くなるのを感じた。
 たしかに彼が裏口から出てきた時、どきっとしなかったといえば嘘になる。あんな妖精みたいな人間が実際に生きていることがやっぱり信じられなかったし、それなりにあの瞬間、目も奪われた。その後の行動は不可解だし、フリオニールを少なからずもやもやさせたけれど、そんな所にやっと人間らしさを感じ、ほっとしたのも事実だった。
 黙っていれば追い討ちを掛けるようなマリアの言葉が耳に飛び込んでくる。

「あら、隠せてると思ってたの?
 ハイスクールの時、ミンウ先生の事ばっかり話すのにどれだけ付き合わされたと思ってるのよ。
 フリオは昔からミステリアスな美人に目がないもんね~」
「……あーもう」

 とっくにもう片をつけて忘れた事にしていた、ハイスクール時代の国語教師の名前まで持ち出されてしまっては、もう形無しだ。
 今もどうだかあやしいけれど、当時は駆け引きの「か」の字も分からなかった。ただむくむくと自分の大きくなる「好き」という気持ちに耐えかねて、初めて告白した相手が彼だという事をマリアは知らない。その後、彼とどうなったのかも。
 色々な事が一気に思い起こされてしまったら、もう恥ずかしくって目を覆うしかない。
 そんなフリオニールには気付く様子もなくマリアは先ほどまで凭れていたカウンターに腰かけ、足をぷらっぷらさせている。
「でも、ほんと、いいなあ、実物見れて。ローザ・ファレルのパートナー。
 ずるい! 今度わたしもフリオの助手の振りして配達ついてっちゃおっと」
「お前、最近忙しくってそんな暇ないだろ」
「ふふっ、まあね、おかげさまで」

 ずるい、か。
 一通り話を終えて、じゃあ、また寄るね、と言ったマリアがドアの向こうの通りを歩いていくのを見届けた後、フリオニールはまだ終わっていなかった閉店作業を再開した。
 なんであいつ――セシルは、花束の贈り主を、しかも自分の兄を「ずるい」だなんて言ったんだろう。それはフリオニールにがいくら考えようにも分かるはずがないのはことなのに。こうして店の床を掃きながらもなお、先ほど出会ったバレエダンサーの言葉の意味を探ろうとしている自らの不毛さに、どっとため息が出た。