夢に楽土を、地上に金色の光を

 背中の下が段々とぬかるんでくるみたいに、ふんわりとした浅い眠りに吸い込まれていく。ここはどこだっけ?革張りのソファーは柔らかく体が程よく沈んでいい気持ちだ。武器の手入れはもう終わったから眠ったっていいんだ、とうつらうつらしながら、僕は思い、目を瞑る。

 寄せては返す眠りの波に何度か引っ張られるうちに、どうやら僕は夢を見ていたようだった。それは遠く、甘くてなんだかくすぐったい気持ちになる、あの天上の国にいた、ぼくたち家族と、そのおきゃくさまの夢だった。

「……リー、リー!」

 いつもの朝と同じ。母さんの声と甘いパンケーキの匂いがして、ぼくは読みかけの絵本なんてうっちゃって、客間に向かう階段を走って上っていく。急いで転ばないでね、リー! 後ろからそんな声が聞こえるのを、気にしていられないほど、この時間を楽しみにしていた。

 起きぬけで少しぼんやりとしている「我が家の素敵なおきゃくさま」におはようのキスをするのはぼく。そして彼が毎日最初に顔を合わせるのもぼく! この短い朝のひと時だけが、自分に許された、多忙な彼をひとり占めできる時間だった。

 ブラインドの隙間からわずかに日の差す静かなその部屋に入ると、穏やかな寝息が聞こえた。音を立てずに寝台の側へと近づき、そこに横たわる人の、彫りが深く整った顔やブランケットからはみ出した腕や足の先っぽの方をこうして僕はじっと毎朝眺めてしまう。

 下穿きだけを身につけ、微睡むその姿が父さんと全然違って見えるのは、どこか遠い場所の雰囲気が漂う褐色の肌のせいかもしれない。

 彼が頬擦りしてくれる時はいつも、不思議な容貌と少しだけ香るコロン、そして汗の匂いになぜだか、さんさんと輝く金色のおひさまに抱かれる心地がした。

「シグルドにいちゃん、おきて、じゅう時だよ」

 寝台の上の青年が小さく唸り、身じろいだ時、不意に毛布がはだけた。黒いベルベットみたいな滑らかな裸の胸で光るのは銀色のピアス。被験体だった彼にとってそれがどんな意味を持つのかなんてその頃の僕に分かるわけがない。だけど子供の目にもその眺めは十分背徳的で。目にすべき物ではない事は十分感じていたのに、それでもそこから目を離す事が出来なかった。

 ややしばらくして、ゆっくりと白い睫毛に縁取られた瞼が開いた。深いブルーの瞳を持つ、まだ眠たげな様子の彼の両頬に短く口付けると、その人は小さく笑って、「おはよう、ビリー」と優しげに呟く。

「着替えてすぐに行くよ、階下(した)で待っていてくれないか」

 緩慢な動きで寝床から這い出る兄ちゃんを見届けると部屋の外に出て、僕は今しがた上がってきたばかりの階段に膝を立てて座り込み、顔を伏せ、身体を固く丸めた。

 何をしたわけじゃない。いつもどおり頬に口付けしただけだ。それなのに、とても許されない事をしてしまった、と身体の底から震えるほどの罪悪を覚えてたのはどうしてなんだろう。

 耳障りのいい低い声、優しい手の、海の色ほど深い碧の穏やかな瞳をした、大好きなその人の秘密はきっとこれから誰にも話せないーー。

 
「おい、ビリー。……寝ちまったのか? まったく、 眠れんって言ってたのは、どこのどいつだよ」
無遠慮に名前を呼ぶ声がして、僕は途端に現実に引き戻される。そして、自分がどこにいるのかやっと思い出した。

 このユグドラシルの中で一等上等な革張りのソファーがありそうな場所は一つしかない。「艦長室」だ。

「……ねぇバルト、キミはいちいち、そうやって嫌味を言わないと気が済まないの?」
「いーや。別に寝ようが何しようが構わねーよ、邪魔しねえんならさ」

 アイオーン達の本拠地偵察を明日に控え、ギアドックで自分の機体の最終調整を終え、居住区に帰ってきたけれど、何となく眠る気になれなくて、共に偵察部隊にアサインされている一人であるバルトを訪ねてみたのが少し前。さすがに深夜の来訪には呆れた様だったけれど、二、三の小言を言った後は、邪魔をしないなら好きにしろ、と向かいのソファーを勧められたんだっけ。

 どうやら彼は闖入者である僕がやってくる前から、上等なソファーに脚を投げ出し、手元の紙たばや何かを確認する作業に没頭しているようだった。バルトは私室用らしい白い綿のゆったりとした上下に身を包み、髪を解いたラフな格好でいやに真剣に書類に向き合っている。そんな彼を見るのは初めてだった。

 認めるのが癪だけど、落ち着いた様子のバルトは、すごく「ちゃんとして」見える。

ーーなんだ、ちゃんと王子様っぽい時もあるんじゃないか。……。

 そんなことを考えながら、眠たくなるまでのつもりで靴を脱ぎ、ソファーに寝転んだのだけれど、いつの間にかうたた寝してしまったみたいだ。
 目が覚めて照度の低い灯りの下で眺める、三つ編みの癖がついて緩くウエーブがかった金髪や日焼けの肌は、普段の嫌味なくらいの眩さはどこかにいっちゃったように見える。金髪は色を失い銀髪に、小麦色の肌はより野生的な褐色の様に。
 そして、金色の睫毛に縁取られた「ファティマの碧玉」は、シグルド兄ちゃんの深い瞳と同じ色。
ーーおはよう、ビリー。
 不意にうたた寝の夢で聞いた、穏やかな声がよみがえり、途端にそわそわして落ち着かない気分になる。
 ようやく眠れそうだったし、長居するのも悪いだろう。僕はひとつ息をついてから、部屋を辞すためにソファーから起き上がる。
「きみ、なんだか忙しそうだし、僕はもう戻るよ」
「……ああ、じゃあな」
 本当はお礼くらい言って帰ろうと思ったのに。こちらを見もせずに生返事を返す王子様につい腹が立ってきてしまって。
 ブーツを履く途中で一瞬手を止め、彼を見据えて、本当は言うつもりの無かったことを尋ねてみる。

「それ、何か付け足す事はありそう? 」
「いや……まあ、無いな。今の所」 
 
 その時、「遺言書」を眺めるのをやめ、こちらを見た王子様の表情といったら! まさかその話題に触れられるなんてちょっとも思ってなかったような、びっくり顔は傑作だった。

決してわざと見ようと思ったわけじゃない。ちょうどソファーに寝そべった時、テーブルの上に無造作に投げてあった、書類の一文が目に入ってきたのだった。

『第9項 我ユグドラシルノ指揮権オヨビ所有権ハ副官シグルド・ハーコート氏二譲渡ス』

「ねえ、聞いていいのか分からないけど……」
「何だよ、何でも聞けばいいだろ」
 二の句が継げず躊躇っていると、「 そんなことなんでもないって感じにバルトは笑って肩をすくめる。オマケに「遠慮なんて、大体お前らしくもねー」なんてありがたくない小言付きで。
「あのねえ、僕だってそりゃ遠慮するよ。だって遺言書でしょ?」
「まあな。……あー、ガンルームの銃の事なら、じいに聞いてくれよ。何がどんだけあるかなんて把握してないしな」
「そりゃ、きみにあのコレクションは勿体ないけど、違うよ。
ねえ、なんでこんなギリギリに遺言書なんか見直してるの?」
 あー、なんて呟いて、ちょっと言いにくいのか、宙を見上げて数秒フリーズするバルト。それから、いつものあっけらかんとした口調で言葉をつなぐ。
「まあ、色々あるんだよ、こーゆーのはさ、ちゃんと残して置かないと後が面倒だって、親父とおふくろの時に死ぬほど実感したからな」
「そう、なんだ」
「まあ、残しておいたってどうにもならんなこともあるがな」
 妙に実感のこもった呟きだった。
「正直、帰ってこられるのか不安?」
 僕の問いかけにバルトは一種考えこむような顔を見せた後、口を開く。
「……でも今行かねーと、国も民も守れねえ、飾りだけの「オウサマ」になっちまうだろ。その方が嫌だよ、俺は」
「どうして、」
 尋ねたかったけど声が出なかった。
 多分、彼は何だって差し出しちゃうんだ、自分のソファーや高価な銃のコレクション、愛着のある戦艦に、一人の時間も。「持てるものの義務」で。
 粗野で粗暴で、いつも向こう見ずなバルトのくせに。そう思ったら急に苛立ってきてしまって。思ってもいなかった言葉が口をついて出る。
「……ねえ、個人としてのキミがしたかった事とかないの?」
 したかったこと、ねぇ。呆れたように、わざとらしくため息ついて、それからちょっと面白そうにバルトは笑う。
「それじゃもう死ぬの確定みたいな言い方だな。……あるよ。」
 瞳を伏せ、目の前の彼はまるでその景色が見えるような口ぶりで語り始める。
「俺、アヴェが復興して、象徴としての王家なんか要らなくなったらさ、旅に出たいって思ってンだ。そうだなあ、あー、その頃には多分ガキとかいるだろうし、マルーにはニサンで待っててもらって。で、シグだけ連れてってさ」
「それで?」
「うちの国は国土こそ広いけど、いかんせん大部分が砂漠だろ。だけど、キスレブとドンパチやってた北の辺りは畑作に適してる。そこをもっかい拓いてさ、小麦とか取れるようになったら、住んでた民を呼び戻したり、戦争で親を亡くしたガキたちとか連れてきて村作って。そのうち小さい家でも作って、収穫の時期とか、たまにマルーやシグと遊びに来んの。フェイとか先生とか、みんなも来れるようにしてさ……」
話を聞きながら、僕もアヴェの北部、寒冷な気候の山脈を シグルド兄ちゃんと一緒に旅着で歩くバルトを思い浮かべてみる。
 タムズの船長までいかなくとも、ちょろっと顎髭なんか生やしたバルトが、川沿いの土地にたどり着いて喜んだり、不器用に種を蒔いたりする姿。そして、初めて迎える収穫の時期、金色に輝き、揺れる麦畑に溶け込みそうになりながら、大笑いするバルトを。
「……僕も見てみたい、かも」
 バルトの髪みたいな、イグニスの太陽を受けて伸びやかに育ち、光る麦畑。
 思えば未来のことなんて、考える余裕がずっとなかったなぁって思ったら、急に鼻がつんとしてきた。
 小さい頃、僕が泣きそうになると、シグルド兄ちゃんはしゃがんで腕を広げ、ちょっとだけ遠くを見るみたいな目をしながら、泣きべその頬をいつも抱き寄せてくれたっけ。そのうち、沢山おひさまを浴びた日の夕方みたいな、安心な気持ちになって、だんだんと涙が引っ込んでいったのを思い出す。

 ああ、そっか。シグルド兄ちゃんのおひさまの匂いは、遠い未来の麦畑の香りだったのかもしれないな。

 そんなことを考えるうち、何故だか涙が止まんなくなっちゃって。
「ビリー。お前、」
「……泣いてたら、なんだっていうのさ」
「おーおー、まったくしょうがないガキだよ、お前は」
 ソファーに座ってた王子さまは、おもむろに立ち上がったかと思えば、思いの外ふんわりと僕の肩に腕を回す。子供をあやすみたいに背中をぽんぽんと叩かれれば、恥ずかしくって、くすぐったい気持ちになる。二つしか違わないってのに、子供扱いされるのは心外だ。
 薄く香る、青りんごみたいなコロンの匂い。やっぱりぜんぜんシグルド兄ちゃんとは違う。違うはずなのに、子供みたいにぼわっと暖かい体温を感じると、妙になつかしく、ざわざわした気持ちが落ち着く気がした。
「もう、いいよ。大丈夫」
 軽くバルトの胸を押し、身体を離す。
「……おう、それならいーけど。泣き止んだならもう寝ちまえよ。明日も早いんだしさ」
「言われなくてもそうするよ。……夜中に急に来たのに、付き合ってくれて、その、ありがとう」
「……おう、そんじゃあ、また明日な」
 そう言ってかったるそうに手を振るバルトに僕は軽く会釈し、艦長室を後にする。
部屋のドアが閉まる直前、ふと気になって振り返ってみると、あんなにご執心だった遺言書から彼はようやく手を離し、ソファーに足を投げ出して寝そべっていた。
 一瞬、あのコバルトブルーの瞳が軽く見開かれ、こちらを見たような気がしたけど、すぐにドアが閉まってしまった。
 スレイブジェネレーターの低い駆動音の他には何も聞こえない、しんとした居住区の廊下を歩く。
ーーまた、明日かぁ。
 デウスを、そして、カレルレンを止めなければ、その明日も来ないから。
 やるべきことはシンプルだ。僕たちの未来を取り戻すためにーー神を殺しに行く。

 規則正しい寝息をたてて眠る妹の顔を確かめ、物音を立てないよう、床に滑り込む。そういえばさっき、ガンルームの横を通った時、かすかに親父の声が聞こえた気がした。管を巻く親父の声が心なしか涙ぐんでるよう聞こえたけど、きっと、あの親父のことだし、僕の勘違いだーー。
 加速度的に眠りに落ちながら、風がそよぐ小麦畑のまぼろしを見る。地上に、まるで誰かの祈りを体現したかのように広がる金色の光。それは天上の国よりもずっと、楽土という言葉が似つかわしいんじゃないかな。

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