夢に楽土を、地上に金色の光を

 思えばその頃、どんな季節にも枯れることなく足許で青々と茂る芝にも、その合間に咲くシロツメクサにも疑問を持つことはなかった。あの天上の国に居た頃、家の庭先を飾っていた草花に違和感を覚えたのは、自分や親父の傍らで、そして油絵の具の匂いのする小部屋やキッチンで微笑んでいた母さんが御許に召されてより少し後の事だったはずだ。
――リー! ビリー! こっちへいらっしゃい!
 彼女が僕たちを置いて遠くに行ってしまってもなお、優しく名前を呼ぶ母さんの声がずっと聞こえる気がして、いつも泣いてばかりいた。それが聞こえなくなったのは、いつからだろう。

親も無く、幼い妹の手を引きながら、どうにかしてその日の糧を得るために日も夜も裏町を歩いていた頃、母さんが側にいた時には気にならなかった事――野辺の草花が芽吹き、育ち、いつしか枯れ果て、朽ちていく事が僕は恐ろしかった。

 ここは幼い頃、過ごした所とは違いすぎる。吹きすさぶ風は冷たく、町場を行き交う人の表情も硬い。ぼんやりとした思い出の中にある、父さんと母さんと僕らの暮らしていたあの家。本当の幸せは懐かしい記憶のように手の届かない所にある。どんな事をしてもこの先、きっと報われることなく、自分も朽ちていくのだ。
 そんな虚ろな思いに飲み込まれそうになっていた時、天啓のように「あの」言葉が与えられた。

「私たちは皆、楽園を追われたのです」

 そう告げ、寄る辺のない僕の手に教書を握らせた、かつて母さんを死に追い遣った男の声、そしてその手と目に――それは本当に優しくって、神さまの御使いがいるとすれば、きっとこんな男(ひと)なんだろう、と思った――、父が僕とプリムの元を去って以来、初めて、大人の人からの強い温情や慈愛を感じ、緊張の糸が切れてしまったように僕は泣いた。

「この大地は苦しみの集まる所。だけれどもビリー、貴方の御母堂がそうであったように、善き人は安住の地へと召されます。そこには世界に満ちる悪意や争い、病の苦しみはなく、また何人も醜く老いていく事はないのです」

 声の出ないプリムの代わりに僕の名前を呼び、じっとりとした手つきで髪を撫でながらストーンは囁いた。
――きっと小さかったせいだ。苦しみの裡にあるこの世界に、朽ちることのない花などあるわけがない。教えを聞き、思い描いた楽園を夢に見たんだ。

 ストーンに導かれ、修道生活に入って以後、次第に幼い頃の記憶について振り返る事は少なくなった。教義に触れた当時の混乱だと記憶を否定し、それに蓋をした僕は、本当につい最近まで、あの四季のない異常な世界の事を思い出しもしなかった。再び自分の足でソラリスの土を踏むまで。

 (実際そこには土と呼べるような、命の循環の輪を見出せる物はほとんど存在していなかったけれど)

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