ナイトホークス、あるいはどっかの明るい浜辺の夢

 彼女の倦怠は、ゴミ箱のチューインガムの銀紙の数で示される。苛立ちはトランシーバーをヒレの耳に当てる回数で。そして、デスクに座った彼女が足の裏でリズムをとりはじめたら、それはもう「クソつまんねー」と思い始めた合図だ。
だいたいそういう時、彼女ーー事件など起きはしないこの平和な田舎町で唯一の警察署長は、永遠に埋まることのないヒマをつぶしにパトカーをめちゃくちゃな運転でもって走らせる”パトロール”に出るのだが、この日は少しだけ勝手が違うようだった。
「アンダイン署長、駐禁エリアに無断駐車車両が一台止まっているそうです。邪魔なので退けてほしいと住民から通報が」
電話を取った、ミセスーー何だっけ彼女の名前は。とにかく警察署に電話がかかってくるなんて、アンダインが署長になってからはほぼ初めてのようなものだったので、前時代的なレースの大きな襟つきの服を着た彼女の名前なんて、とっくに思い出せなくなっていたのだ。
「そうかそうか、それでその車は炎上したのか? 近隣の民家への被害はあったんだろうな。もちろんただの路駐に見せかけた怪しげな組織による車型バクダンだろ。なあそう言ってくれよ、ミセスーー」
「いいえ、ボス。車の炎上も近隣への被害も何もない、ただの違反車両です」
妄想を広げるヒマなく、ぴしゃりと飛んできた否定の言葉に、今日もまた退屈な一日に変わりがないことをアンダインは確認する。
ちぇっ、ショボい事件だな、と悪態を付いたのち、違反切符を持ち、緩慢な歩みで署を後にする。

まったく、この「ホームタウン」という町には退屈な事件しか起きない。例の駐禁車両の件だってそうだ。
ちょっと拡声器で、
「おい、そこの車、早いとこ移動しないとボンネットをボコボコにするぞ。大事な車に傷をつけたくなければそこを退けるんだな」なんて脅せば、すぐに持ち主が飛んできて車を移動させる。やれやれ、これで事件解決ってわけだ。
心底がっかりしながら署に戻ろうとしたその時、誰かに呼び止められた。 振り向くと、そこには見覚えのある姿のガキが立っていたる。見まごうはずかない、この町にたった一匹の「ニンゲン」。
ねえHeyおまわりさんCop
「おまわりさんじゃない、署長Officerと呼びな。誰かと思えばアズゴアのところのクリスじゃないか」
クリスには、おおよそ他のモンスターのガキが持っていそうな鋭いツメも、硬い肌も、はたまた暑さ寒さから身を守るなめらかな被毛もない。あるのはつるんとした傷つきやすそうな肌と、棒切れのような細い手足と、表情を隠すように伸ばした栗色の髪の毛だった。しかし、今日は妙に顔が青白い。体調でも悪いのだろうか。
「クリス、もうすぐアズリエルが帰ってくるんだろ? 楽しみだな」
「ん……そうだね」
愛してやまない兄の名前を聞けばいつもは少しも黙っちゃいないのに、今日はその名にも反応が薄そうだった。
「それよりさ、アンダイン署長。アルフィーって知ってる?」
青白い顔をした彼が口にしたのは、初めて聞く名前だ。「誰のことだ、それは?」と返せば、クリスはあからさまに落胆した表情を見せる。
「僕のクラスの担任なんだ。でも知らないなら、いい。『もしかしたら』って思っただけだから」
「……? まあよく分からんが、気には留めておくよ」
彼だか彼女だかわからないその名は、妙に印象に残る響きだ。
「そしたら僕、帰るから。またね、アンダイン署長」
「じゃあなーーって、お前、トリエルの迎えは待たないのか? いつも帰るのは車だろ」
こちらの声が聞こえているのかいないのか、振り向くことなく、ひらひらと手を振ってクリスは帰っていく。顔色が悪かったのは、母親とけんかでもしたのかもしれない。頼りない少年の背中を一瞥した後、アンダインもしぶしぶ署に戻る準備を始めた。