もう森へなんか行かない

 霧の濃い朝に目が覚めて窓を開けると、りんごの匂いがした。

 ぼくは幻視する。はしごに登ってりんごの木から甘い匂いの果実を取ろうとするおしゃまな、蜂蜜色の髪の毛の女の子と、それを不安そうに見上げるまだこどもだった頃のぼくと、それよりも大人びた、少し離れたところから腕を組んで女の子を見つめる少年を。

「ローザ、おれは取ってやるって言ったんだからな」
 木の上の女の子を艶のある金髪の少年は牽制した。それを聞くとさも憤慨したように、少女は、
「別に落っこちたとしてもカイン、あなたに泣きついたりなんかしないわ、ほら、セシル、持ってて」
 と、言葉を返した後、ぼくにりんごの実を放りなげた。
 年の頃はいくつだったか。確かそれはぼくも、どことなく高貴な雰囲気がする金髪の少年も――この頃ぼくには、同い年くらいの友達といえば彼か、はしごの上のおてんばなお姫様みたいな彼女しかいなかった。もっとも後になっても気の置けない友人といえばこの2人以外にはありえなかったけれど――兵学校に入学する前だったから、ほんとうに子供の頃といっても差し支えのない年齢だったんだと思う。
 結局はしごから落ちることもなく、女の子――ローザは仕事を終えて満足げに地上に足を降ろした。
「ほらカイン、すこしはセシルのりんごもってあげなさいよ。
手伝わない人にはアップルパイは当たらないのよ」
「はいはい、お姫様」
 実際ぼくの腕の中にはローザから受け取ったりんごが山のようにあった。青い目の少年――カインは何もいわずにそれを半分持って、ファレル家の屋敷に入っていく。たまにぼくは忘れそうになる。いくらこうやって遊んでくれていても、彼らはれっきとした貴族で、ぼくは出自の分からない孤児だ。今にして思えば気後れしないわけがなかったのだ。
 りんごを持ったまま立ちすくんでいると、何ぼけっとしてるんだ、行くぞ、とリンゴをキッチンに置いて戻ってきたカインがぼくの腕を引く。
「ほんっとに、おまえってとろくさいよな、もうすこししゃきっとしろよ」
「そうかなあ……」
「心配してるんだぞ、おれは。おまえ、兵学校に行きたいっていってただろ、あんなところに集まるのは
「お上品」な連中ばっかだぞ、大丈夫か?」
 ぼくにはカインがその言葉に込めた意味がいまいち理解できなかった。その意味を知ったのは、はじめて兵学校の寄宿舎に足を踏み入れた時のことである。

 その後、まもなくカインが兵学校に入り、それを追いかけるようにぼくも1年待って入学した。
 さすがに少しの読み書きは出来たけれど、それまでの人生で学校という所に行った事もなければカインやローザのように家庭教師の先生に付いて勉強する習慣も無かったぼくにとって、今まで知らなかった何かについて毎日触れることが出来る兵学校での授業は新鮮で心躍るものであったけれど、一日が終わってベットに入るときにはいつでもへとへとだった。学科に加えて実技訓練の授業がある日なんてさらに。
 それでも、そんな生活にだって数ヶ月が過ぎる頃には慣れ、少しくらいの余裕を感じるようにはなったんだ。
 その頃、ぼくの一番の関心事は、どうすれば早く一人前の大人――つまり国を守りうる力になれるか、という事だった。それだけが自分を拾い、育ててくれた陛下のためにできる唯一のことだと信じていたし、それが叶う時、きっと陛下も喜んでくださると思っていたから。

 時には息が詰まりそうになる事もあったけれど、外出日にはローザがぼくとカインを尋ねてきてくれるおかげでいい気分転換が出来た。
「今年もうちの庭のりんごがなったわ。コンフォートを持ってきたの、ねえ、少しおでかけしましょう!
 ……二人とも篭りっきりなの? すこしやつれた?」
 ある時彼女が心配そうに言った言葉は、確かに半分は当たっていた。この頃、一日の最後に遊びまわれる余力が残っている日はそんなにはなかったから。だけどひとたび寝てしまえば次の朝には疲れなんて消えていた。
 最初は自分でも、ローザが言うように、この生活に慣れなかったせいで少し痩せたのかとも思った。
 顔は頬の丸さを失ってシャープに。体も少年くさい、筋張ったものに。めくるめくスピードで、そして確実に、その頃、ぼくたちには何か変化が起こっていた。普段顔を合わせないローザの目にそれは一体どう写ったんだろう?
 もちろんこうやってぼくたちを訪ねてくるローザだって、もうすっかり、自分ではしごに昇ってりんごを取りたいとだだをこねた少女には見えないほど、大人びて見えた。

 その日ぼくらは、りんごのコンフォートとパンを詰めたバスケットを持って、バロン郊外の森へ、久しぶりにピクニックに出かける事にした。
 こうやって三人集まるときはいつだって最後はお決まりの昔話になる。いかにローザが向こう見ずで、男勝りで、よくご両親に心配されていたか。いかにカインが普段は高々1、2才しか違わないくせに兄さん風を吹かせておいて、ここぞというときに一番遊びに熱狂するタイプだったか。そしてぼくがのんきで、ぼうっとしていて、面倒くさい事とか全部無縁のタイプに一見見えるけれど、実際接してみるとわりと頑固なタイプだった、とか、そんな。  だけど、ぼくらの姿はそんな昔話の中の自分たちとはずいぶん変ってしまったみたいだ。
 リチャードさん―カインのお父さん―がなくなってから、カインの口数は少し減った。もちろん軽口も叩くし、級友とばかをやってる時もある。それでも、ふとした瞬間、何か難しい事を考えてるような顔をして黙っている彼が視界に入ってくるなんて以前はとても考えられなかった。
 だから今みたいに「このりんごも当然お前がはしごに昇って取ってきたんだよな、ローザ」なんて、ほんとうに可笑しそうに彼女に尋ねるカインには心底、ぼくはほっとするのに。どうしてその、彼の寛いだ態度を見て戸惑ったりなんてしなくちゃいけないんだろう。
 ぼくや兵学校の仲間と話す時には決して宿りえないひそやかさが、ローザを見つめるカインの眼の中にはある。それは幼馴染や妹を見るようなものでは多分、ない。
 しかしこの時のぼくには、それが何であるかはまだ、とても説明できない。

「どうした、セシル。ローザの作ったコンフォート、おまえ好きだろ、もっと食えよ」
 なんだか長く考え事をしていたみたいだ。手も口も止まってしまっていたぼくにカインが瓶詰めのりんごのコンフォートを寄越そうとしたけれど、首を横に振ってそれを退けた。
「ううん、もう十分。ありがとう」
「でも、カインもそうだけど、あなたも見ないうちにすっかり変わったわ。
いつも夕方になるとさびしそうに、なきべそかくのを堪えながら「さよなら」ってお城に帰っていくあなたを見て、いつも、「ああ、わたしたちが守ってあげないと」って思ってたのに。
 大人っぽくなったわ、セシル」
 不意にローザの手が兵学校に入ってから調髪して短くしている、ぼくの癖毛に触れた。そんな小さかったの頃の話も照れくさかったし、事実、日一日と変っていってしまう自分に不安を覚えないわけでもなかったぼくは思わず言葉に詰まってしまう。そうかなあ、と返すのがやっとだった。  でも、じゃあ、カインは。ローザの白く傷つきやすそうな手でふわふわと髪を撫でられながら、ぼくはピクニック用の敷き布の上に寝転んでいるカインを見つめる。もう、はじめて会った時のせっかちで生意気な感じは見つけられない。
 ローザを真似て、自分もそっと、さらさらとした癖のないカインの金髪に指を伸ばそうとしてみる。りんごジャムよりももっととろっとした、まばゆい金色。
「お前は変わったよね、もちろん色んなことがあったからだろうけど」
 さり気なくぼくの手が髪に触れる前にそれをカインはかわし、こちらを向いて上体を起こした。
「変わらないやつなんで誰もいないさ。時間はいつだって過ぎていくんだ。だけど」
 そういうとカインはローザが持ってきたバスケットの中のパンを一枚齧った。
「何が起きたって、お前たちの事はおれが何としても守るさ。今、勉強しているのだってその為だ」
 その時、カインの物憂げな深く青い目が、しっかりとローザを見ていた事をどうしてもぼくはいつまでも忘れられなかった。

 直に暗くなる、帰るぞ、というカインの声がするまでぼくらは森に遊び、帰り道は空に浮かび始めた星を見上げながら歩いた。