ナイトホークス、あるいはどっかの明るい浜辺の夢

その晩、アンダインはいつものように行きつけのダイナーの扉をくぐった瞬間、ひどく後悔した。いつも彼女の専用席だったカウンターはとっくに別の客に占領されていたのだ。一人で気軽にメシを食うにはぴったりの場所なのに。
アンダインは料理をしない。一人分の食事を用意するためだけにキッチンに立つという、まどろっこしいことが耐えられないのだ。
「ソファー席なら空いてるよ。後から他のお客さんと相席してもらうかもしれないけど」
それほど愛想のない店員が窓ぎわの席を指差す。
「それでもいいさ、食べれればなんでも」
ため息一つついて、ソファーが2つ向かいあった席にドカッと腰掛ける。ブーツの靴紐を緩めると、退屈さのお徳用パックみたいな仕事から解き放たれた解放感がどっと押し寄せる。それから、寸分違わず空腹も。
日光を浴びすぎて、色あせたメニューはもう読まなくても内容を覚えた。バカしか食わない、顔の大きさを優に超える72ポンドの特盛ステーキ。3段重ねのハンバーガー。甘ったるいバタースコッチパイにチョコレートサンデー。仕事帰りにはどれも気分じゃなくて、アンダインが頼むのはいつも同じメニューだった。
ちょっと伸び気味の麺に、至って標準的なミートボール入りトマトソースが雑にかけられたスパゲッティ。家で冷凍パスタを食べていたこともあったが今ひとつ物足りなく、結局はダイナーに戻ってきてしまうのだ。もしかしたら食事の味なんて本当はどうでもいいのかもしれない。
注文をしてしばらく、ホッカホカの湯気と共に目の前に供されるのはスパゲッティだけのはずだった。
「すまないね、ここしかもう空いてないんだ。相席で頼むよ」
店員の大してすまなさそうではない声と共にテーブルの向かい側に現れたのは、黄色くてなんだかぽやぽやして柔らかそうな見た目の、メガネをかけた恐竜がたモンスターだった。緑のジャケットにシャツとネクタイを合わせた姿は、いかにも「生徒にイケてると思われたいスノッブな教師」然としている。
「あ、あの、ごめんね。一緒に座らせてもらっちゃって。今日こんなにダイナーが混んでるなんて知らなかったわ……」
メガネの奥の右へ左へと泳ぐ目が、彼女の居心地の悪さを伝えてくる。それを見ていたら、なんだか妙におかしみがこみ上げてくる。
「そんなに緊張しなくていい。別にとって食ったりしないさ。アンダインだ」
テーブルの向こう側に細かな鱗で覆われた手を差し出すと、やっぱり「それ」はおっかなびっくりしながら、意外にもおおきくぽってりとした手を重ねてきた。
「わ!? あなたの手、冷たいのね……アルフィーよ」
変温体質の肌に驚いたのか、目の前のモンスターは手を引っ込めたが、そんなことはどうでもいい。気になったのはもっと別のことだった。
「アルフィーだって? アズゴアのとこのクリスの担任か?」
その名前に何か思うところがあったらしく、彼女は微妙な表情を浮かべる。
「……そう、クリスのいるクラスを受け持ってるんだけど、あの子にチョークを取ってくるように頼んだら、取りに行ったきり全然戻ってこなくて。一緒に取りにいった、スージィに何か感化されたんじゃないならいいんだけど」
確かに今日のクリスは少し様子がおかしかった。スージィとは、退屈な町で唯一と言っていい、退屈じゃない存在、つまりはバッドガールだ。ニンゲンの子どもと問題のある生徒を受け持つのは、なかなか骨が折れそうだ。
そういえば、クリスが言ってた『もしかしたら』って一体何のことだったのだろう。
「なるほどな。……ところで何か食べないのか」
アンダインとその手元のスパゲッティーをじっ、と見つめた後、私、やっぱりバタースコッチパイにするわ、とこの数分間で見慣れた、どこか怯えたような顔でアルフィーは告げたのだった。

スパゲッティを食べ終わり、泥水みたいなコーヒーをほぼ習慣ですする。熱いのが嫌で少しずつしか飲めない。
「アイスコーヒーにしたらいいのに」
ところどころ水をこぼしたみたいにページがくしゃくしゃの雑誌に目を落としながら、憐憫のにじむ声で目の前の彼女は呟く。
「それじゃあっという間に飲んじまうから、ゆっくりできないだろ」
ふうん、と気のない相槌をうつアルフィー。その彼女が、レモンの沈んだ紅茶を片手に熱心に見つめるのは、ついぞアンダインが足を運んだことのないリゾート地の写真だった。
「白い砂浜とエメラルドグリーンの海……こんな海辺にいつか行ってみたいの」
太陽をたっぷりと浴びた砂の上は、きっとアンダインには暑すぎる。それでも寄せては返す波を、日差しを遮るパラソルの下、眺めるのはきっと気分がいいだろう。
蜃気楼でゆれる水平線、目を開けていられないほどまぶしい景色。
「……ところでその雑誌、どこで拾ってきたんだ?」
「こ、これはね、うちの前に置いてってくれる親切な人がい、いたのよ。私、あの路地裏の「ほう」に住んでて……」
色があせた旅行雑誌の出どころについて尋ねると、途端に焦りだすアルフィーに、いや、違うんだ、と彼女の釈明を制止する。
「その……どこかで売ってるなら、わたしもちょっと読んでみたい、って思っただけなんだ」
自分の顔がみるみる赤くなっていくの感じる。雑誌なんて軟派なもの、幼い頃から読んだことがなかった。
ましてや、メイクやファッション、素敵なお菓子やティータイム、そして、クソ退屈な日常を忘れられる旅行だったり、おおよそ女性の興味がありそうな事に興味があるなんて、人に知られてはならないのに。
いたたまれなくなり俯けば、向かいからクスッと笑い声が聞こえるーーほら、やっぱり自分には不似合いなのだ。
「あなたこそ、何も気にしなくていいのに。ちょっと気に入ってたけど、あげるわ、特別に」
目の前の人から差し出された、しわしわのその雑誌におそるおそるアンダインは手を伸ばす。
「うちに帰ったら、少し読んでみようかな」
やっと口に出せたのは、照れ隠しの一言だけだった。でもきっと隠せちゃいないのだ。その証左に、あらそう、と呟いたアルフィーの声にもそれを見抜いているような、上機嫌さが滲んでいた。