兵学校寄宿舎のぼくらの部屋に、紙袋に包まれた瓶を持ってカインが帰ってきたのは、それから1年後のある日のことだった。表情は笑っているようにも見えたが、怒っているようにも見える。
つまり、ちょっときれてる。
「なあ、セシル、飲むぞ」
カインの口角がにやっと、上がっている。
とんでもない、書き物机の椅子に座っていたぼくはかぶりを振る。
「いやだよ、酒なんて。明日も朝から実習だろ」
「二日酔いになったら風邪引いたって言って休んどけばいい。
それとも、成績優秀と噂されるセシル・ハーヴィーは友情の面でDマイナスの評価を喰らいたいのか?」
しれっとそんなことを言いながら、ぼくが本やノートを広げていた書き物机にワインの瓶と、ワインを飲むには少し情緒の足りない、水飲み用のアルミのコップを二つ、カインは並べはじめる。こうなればもう今日の復習なんて続けられない。
ええい、もう、どうにでもなってしまえとぼくも机に広げていた勉強道具を片付けながら、カインに尋ねた。
「わかったよ、わかった! 付き合う。でも急にどうしたんだよ。お前が酒なんて」
それまで笑うくらいの余裕はあったはずのカインの表情が、一瞬にして冴えないものになる。
そしてそれに続いた言葉にぼくのテンションも若干下がった。
「どうやら……ローザには好きなやつが出来た。
その……、下級生の彼女がローザと仲がいいんだが、その彼女が言っていたんだと」
「へぇ……それで、どうこの自棄酒とローザに関係あるの?
別にローザが誰を好きだろうと、ぼくたち、今まで通り出かけたりすればいいじゃないか。
一体何を気にするっていうんだよ」
言いながらふと思い出す。いつかのピクニックの時のローザを見つめるカインのまなざし。どこかあこがれるような、でも決して触れられないそれに対して焦がれている感じ。
「……確かに。しかしセシルよ、想像してみろ。
俺たち以外のいけ好かない男がローザに指一本でも触れるのを。
そんなのお前もいやだろ?」
どこかちゃかすように肩をすくめてから、アルミコップに赤ワインを注ぎ始めるカインを見ながら、しかし果たしてローザがそんな「いけ好かない男」を好きになる事なんてあるのだろうか、という疑問が頭を掠め、ぼくは俯いた。
カインはアルミコップでぼくの額をノックするとそれをぼくに手渡す。
飲めよ、と薦められ、少しだけコップの中の赤い液体を口に含むと、それは甘みというよりも酸味が強かった。慣れない味にきっと変な顔してる、ぼく。
それを見たカインは部屋に入ってきたときの不機嫌さとは打って変わって、うれしそうに笑った。
「どうした、セシル。俺の憂鬱が分かったか。お前ももう姉さんみたいにローザに甘えられないぞ」
「べ、べつにぼくはローザのこと姉さんだなんて!」
「そうやってむきになると肯定しているようにしか聞こえん。
……なあ、時にセシル、お前、恋って何か知ってるか」
その言葉は知っていたし、兵学校の基礎課程の文学の時間でも、世界には有名な恋の話が沢山ある、と聞いていた。ぼくの隣の席の子が、外出日のたびにそれなりの感じの子が寄宿舎に迎えに来るのを今か今かと待ちわびているのはクラス中みんなが知っている。ぼくの中にある恋のイメージはそんなもの。
でも、ほんとうは少しだけ違った。
誰にも言ったことがないけれど、どう名づけていいのか分からない衝動を感じる時がぼくにはある。
ある人の夢を見て目が覚めた朝。
そしてその人が隣のベットで眠るのを見つめる時。
ぼくとそのルームメイト、目の前でローザの懸想する相手の事なんか気にしている彼のベットとの間には「幼馴染」という名のバリケードが築かれている。だからそっと寝ているその人に触れるなんて事はできない。ぼくはいつも壁の向こうを恐れながらも、その先をのぞきたくて仕方がないのだ。 ぼくはゆるくかぶりを振る。
こんな思い悟られたくない。ぼくたちは幼馴染で、りんごの園がよく似合う、ピクニックバスケットなんか持って森へ行く3人組なのだから。今までも、これからも。
「女の子じゃないんだ、恋の話なんて興味ない」
「そうか……じゃあ、ほら、もっと飲めよ」
「うん……」
その返事を聞いてますますうれしそうになったカインに、じゃあお前は恋が何か知っているの?と聞くのはとても恐ろしくて、ぎゅっとコップを握っていない方の手をぼくは握る。