愛する人に林檎をあげよう

 平穏を取り戻し、十余年の凪の時代を迎えた青き星に、再び恐怖と混乱を与えた真月の襲来から、一年が過ぎた。
 上位存在の被造物である少女《マイナス》と、それに意識を操られたセシル、そして、自分の犯した罪の大きさに向き合えず、心の弱さに打ち勝つことのみを求めていたばかりに二つに分かたれ、解き放たれてしまった、俺――カイン・ハイウインドの悪しき半身により傷つき、被害を受けた他国の復興も、一足飛びとはいかないが、着実に進みつつあった。
 脅威からの解放と、無事秋の収穫を迎えたことを祝い、感謝するため、各国では豊穣祭の準備が行われている。それはここ、かつての軍事大国であり、今は他の国々との不可侵条約を結んだ後、おおよそ侵略に用いることができる兵器や武装を捨て去った、バロンの国も例外ではなかった。
 当代の聖騎士であり、かつて危機に瀕した国を立て直した救国王 セシル・ハーヴィによる治世は、真月からの帰還後も続いていた。かつての仲間であり、ともに星を救った盟友たちも、光と正義の心を取り戻し、そして自らの過去を受け止めた彼を退位させることを望まなかった。その盟友たちの期待を裏切ることなく、復興に邁進するセシルであったが、このところ、どうもその顔色が冴えないことが気になり、俺とローザは、執務室にこもり切りの友人を連れ出し、バロン郊外の荘園へと短い休暇に向かった。
そこはかつて栄華を誇った、ハイウインド一族の邸宅だ。
 長年、手入れに誰も訪れることなかった屋敷には、薄暗い色の埃が雪のように降り積もり、重なっていたし、床板や階段なども大分傷んでいたが、俺のバロンへの帰還と共に、セシルが邸宅の修理を隠れて依頼していたらしい。
 そうして今日、俺はハーヴィ一家を伴い、修復後のハイウインド邸に初めて足を踏み入れることとなった。普段は年若さゆえの向こう見ずさや未熟さを覗かせながらも、赤い翼の隊長となった俺を精一杯補佐してくれる、セオドア――ローザとセシルによく似た、素直で負けず嫌いの少年も今回の休暇に同行している。
 王子という身分で扱われるのを厭い、本当の自分を見てほしいという彼の希望を汲んだ、かつての戦友であるビッグスとウエッジに倣い、極力彼を王子として、そして友人たちの愛息としてでもなく、ただの「セオドア」として扱うように日頃心がけていた。それが若干困った事態を引き起こすこともままあるが。そう、今のように。

「部隊長も今回の休暇に同行されるんですね!」
 休暇用の大量の荷物を自ら背負いながら、きらきらとしたアイスブルーの瞳を輝かせ、俺の後をついて歩くセオドア。普段から非番の際には必要以上に畏まるな、と告げているのだが、かつての上官の教えを甲斐甲斐しく守る彼にどう告げたものか。
「確かに部隊長と呼べとは言ったが、休暇だぞ? 休みくらい、子供らしく振舞っても誰も咎めんさ」
 自分の言葉に、でも……と言いよどむ少年の唇に人差し指を押し当てる。
「これは上官命令だ、この休暇中、一言でも部隊長と呼んだら、休暇明けの戦闘訓練の量を倍にするぞ。心得ておくんだな」
「は、はい! えっと……カインさん」
 かつてミシディア近郊に落ちた飛空艇の傍ら、こと切れた仲間たちの亡骸を揺さぶり、だれか一人でも生きてはいないかと、涙を流しながら確かめていた少年。母や仲間の無事を確かめるため、歯を食いしばり、崩れた山を必死に上っていた彼が、少年らしい明るさをすっかり取り戻したことが今の俺にはとても好ましく感じられた。
「ほら、お前の母さんと父さんはもっと先を歩いているぞ。少し様子を見てやったらどうだ。案外久しぶりの遠出で疲れているかもしれんぞ」
「! そうですよね、見てきます!」
 言うが早く、重い荷物もなんのその、少年は子犬のように駆けていく。その髪は、毎夜輝く月の色にも似た美しい銀色にも、明るい蜂蜜色にも見える。友人たちの幼い頃の生き写し。あの頑固さと無鉄砲さもまさに二人から受け継いだものに違いない。
 そう告げれば、きっとセオドアはきっと赤面するかもしれないが。
 思いがけず、本当は出会うはずがなかった少年と関わる機会を得た事は、この先おそらく自らの子孫を持つことはないだろう自分にとって、過大にも思える贈り物のようにも感じている。
神からの贈り物。まさに彼を体現した、ふさわしき名前だ。
ああ、そういえば、同じ由来の名を持つという男は、もう一人いたか。

 かつて黒衣の男、そして世界に混沌をもたらした、魔導士ゴルベーザと呼ばれた男。あいつは、星をも超える船・魔導船を駆り、マイナデスたちの襲撃を受けた同胞達の無事を確かめに、遥か遠くまで駆けて行ったはずだった。
別れの時、セオドアは確かに「また会える」と彼に告げたという。
そしてその言葉の通り、一年の時を経て、男は帰ってきた。

――フースーヤは息災だった。同胞たちもまた。それで……。
 バロン近郊の湖に魔導船が再び降り立ったと報告を受け、赤い翼を駆り、急いで駆けつけると、船から降り立ったあの男は、ひどく言いにくそうにそう告げた。もちろん、セシルに同胞の無事を告げるためだけに戻ってきたわけではなさそうだった。

――ああ! お前もセシルも、大事なことばかり言いごもる。はっきり言ったらどうだ。 
 自分よりも十も上の齢だというのに、豊かな銀の髪をした大きな黒衣の男は、ささいないたずらを怒られ、傷つく子供のような顔をし、それからぽつり、と言葉を返す。
――そうだな……偽らず言うなら、私も父と母が出会い、愛したこの星を見てみたくなったのだ。フースーヤにも「迷いが生じている」と言われた。だから……もう少しばかり、ここに居させてはもらえないだろうか。
 その言葉を聞き、俺と共に現場へと駆けつけたセオドアは、顔を輝かせ、同じ由来の名を持つ伯父の元へと走っていった。
――ほら、また会えたじゃないですか。おかえりなさい、
 セオドールおじさん。少年は、父母から伝え聞いた、男の真の名を口にしたのだった。

 いまだゴルベーザという名を聞けば、十余年前の戦禍を思い出す人間もいるだろう。そのため、あいつのことはひとまず「セオドール」と皆で呼ぶことにした。
 最初はバロン城へと滞在させていたが、「青き星のことを調査したい」と申し出た彼が、城の中や城下町をあのでかい図体を晒し、昼も夜もなく、思いついたことを検証するため歩き回るのを見て、その男の出自を知らない、厨房で働く年若き乙女がある夜、あいつを幻獣のタイタンなんかと見紛うて、恐ろしさのあまり、城の廊下でぱったりと倒れた。その事件をきっかけに、民の理解を得る準備の間、どこか目立たない場所で隠遁してもらう計画を立てざるを得なくなった。
 あの大きな男を隠しておくのに、おあつらえ向きの場所など見つかるものか、と慌ててその場しのぎの案を見繕うセシルを見て気の毒になるほどだった。
 ところが、一棟、確かに人目をしのげる、一人で暮らすにはいささか広すぎるきらいがあるくらいの、敷地から出ずとも十分に過ごすことが可能な場所があったのだ。
 
 ハイウインド邸の門扉は、その先客によって開城されていた。かつては荒れ放題だった、屋敷の前の草花も几帳面に剪定されている。
「これもお前のさしがねか、セシル」
 ミストの山間に咲くような野草が生き生きと育つ花壇には、ポーションなどの材料となるハーブも植えられている。
「なるほど、こういう風にしたのか――あの人らしい、実用的な庭だね」
 感心するようにセシルがつぶやいたその言葉ですべてを察した。その庭をこしらえた人物は、どうにも屋敷の奥にでもこもっているのか、一向に俺たちを迎えには現れないようだったが。
「あいつめ、他人の屋敷でずいぶん好き勝手に楽しんでくれているようじゃないか、ゴルベ……」
「カインさん、『セオドール』おじさん、ですよ」
 耳聡く俺の呟きを聞いていたセオドアが得意げに訂正する。
「ああ、そうだな。じゃあ、どっちが早く「セオドール」を見つけられるか、今から競争するか? セオドア」
「ああ、もちろん! 望むところですよ、部隊長……あっ、カインさん」
 どうやら休み明けの訓練が激しいものになることを、今しがたセオドアは気づいたようだったが、気を取り直すと屋敷に入り、玄関に荷物を置いて身軽になると、もう少しも待っていられないという風に、新しく改装された邸宅の中へと駆けていく。
「ちょっとセオドア! 新しくした床は滑るわ、転ばないでね!」
 屋敷の長い廊下を走りはじめた愛息を見かね、ローザがその背中に向けて声をかける。彼女の幼い頃のほうがもっと手が付けられなかったというのに。ふ、とこみ上げる笑いをこらえきれないでいると、セシルまでつられて微笑み始める。
「あなたたちと来たら! ほら、まずは荷物を部屋まで運んで。カインはその後なら、セオドアとの競争に参加していいわ。大人なんだもの、それくらいの手加減はしてあげるのよね?」
 おお、こわやこわや。在りし日の「お姫様」の姿を思い出し、俺もセシルも大人しく彼女の言いつけに従うことにした。

 俺が宛がわれた――半ば放棄していたとは言え、所有権は確かに自分にある屋敷でこんな言い方をするのもおかしいだろうが――寝室は、かつて母が主に使っていた部屋だった。
病で臥せっていた彼女が、屋敷から出ることがなくとも四季を楽しめるよう、寝台のすぐ傍の大きな窓からは、森へと通じる屋敷の広大な裏庭が見えるようになっていた。
 母が他界した時、それが受け止められず、今のこの部屋に置かれている衣装箪笥に隠れて、使用人たちや父を困らせたこともあった。懐かしく思って扉を開けば、中は綺麗に埃が取り除かれていたが、確かにあの頃と変わらない、虫避けの樟脳の香りがする。
 この部屋の寝台も含め、ほとんどの家具は傷んでいたのか、新しいものが使われているが、この箪笥だけは当時のままだ。
 父を困らせた話は、後にも先にもローザだけにしかしていない。
――なかなかどうして、俺の友人たちは味な真似をする。
 と、そんなことを考えていた時だった。ふと、気になって窓から裏庭を見てみると、見慣れた大きな図体の、浅黒い肌の男が、ここ十年で庭師によって植えられたものだという、林檎の木の傍に立っているのが見えた。
 まだ館の中を縦横無尽に走り回る少年は、そのことに気づいていないようだ。物音を立てないよう、慎重に大階段を下り、厨房の傍の勝手口から裏庭へと俺は歩いていく。

「セオドールと今は名乗っているんだったな。……久しいな、ゴルベーザ」
 林檎の木に手を伸ばし、一つ身をもいで、その匂いを確かめる男は、もはや月の民の装束は身に着けていない。大柄なこいつに合わせて仕立てられたはずの素朴なシャツとズボンは、いまだなお成長期なのかと錯覚させるほど、窮屈そうに見えた。
「……そろそろ、この樹の実は収穫時期だな。別に好きに呼べばよかろう、カインよ」
 今しがた、もいだばかりの林檎の実をこちらに投げたその男は、人相を隠すためか、それとも実用的な理由なのか、見慣れない眼鏡をかけていた。そういえば、月面に暮らしているせいか、夜目があまり効かないらしいとセシルから聞いていたし、その対策なのかもしれない。
 その目線に気づいたのか、ぽつりぽつりと男は口を開く。
「めがね、というものをセオドアが届けてくれたのだ。これはなかなかどうして便利なものだな。同胞にも届けてやれば、助けになるだろう」
「月の民の技術を持ってすれば、そんなものとっくに出来上がっていてもおかしくないだろうに。地上の方が優れていることなんてあるんだな」
「……もともと、これほど長き旅をする想定ではなかったのだ。ある程度、理想的な星を見つければ、そこに定住することだって考えていた。月で育つ植物は、地上のものに比べて色素を持たないものが多く、そのため栄養素が足りず視力が極端に悪くなるのだ。それを思念で補うことは造作もないが、いずれ旅が終わる時、それでは困るだろう」
「――だから、庭造りか」
 俺の呟きに声なくゴルベーザは頷く。彼の言う「少しばかり」の滞在が終わるのは、その研究が完成する時かもしれない。その時、兄や伯父の帰還に喜ぶセシルやセオドアの落胆はどれほどのものか。
 そんな杞憂を吹き飛ばすように、遠くからあの少年の明るい声が聞こえてくる。
「あっ、カインさーん、見てください、アーシュラが来てくれたんです! 後からリディアさんとクオレも来るって」
 大きく手を振るセオドアの横には、ファブール式の旅着に身を包んだ、ヤンの娘アーシュラが立っていた。よく教育されているのか、まだほんの少女だというのに彼女はいつも礼儀正しい。
「カイン様、セオドール様、ご無沙汰しております。父の名代として馳せ参じました」
「アーシュラもそんなに気取らなくていいよ。せっかくだから一緒に豊穣祭を楽しんでおいでって、ヤンさんが送り出してくれたんだって」
 まあ、セオドアったら、と恥ずかしそうに微笑む少女の目には、たしかに幼馴染を見つめる以外の、ある種の好ましさが映っていた。
 気をつけろよ、アーシュラ。その一族は決して一筋縄ではいかないぞ。そう彼女に目配せをすると、少女は不思議そうに首を傾げるのだった。

 すっかり邸宅の管理者然としたゴルベーザが、子供たちのために先ほどの林檎の木にはしごをかけてやる。
「必要以上にとりすぎないように」
 おまけにもっともらしい、保護者みたいな一言まで飛び出すが、バロンから来た大人は俺も含め、どうやら彼自身、まだ子供のようなところがあるらしいのを知っている。
当座何か困ったことがあれば使ってほしい、と与えられた小遣いで、街中でたまたま試食にと差し出されたファッジの味が物珍しかったのか、しこたま買ってきたのはまだ記憶に新しい。もちろん子供が買い食いをするような金額の範囲ではあったが。

――お兄さんが、なんというか、その……時々大きな子供に見える時があるわ。
 豪胆なローザには珍しく、こんな風に少し困惑の覗く、そしてそれ以上に新しい家族への親愛が見て取れる呟きをいつか聞いたのを思い出す。
「おじさま、ありがとうございます」
 利発なアーシュラは会釈をすると、何やらセオドアと話し始める。
「さあ、子供たちは林檎を取るみたいね。久しぶりの長旅で疲れたでしょう、私たちは少し休憩しましょうか」
 ローザが林檎の木が見えるあたりに敷布を広げて、大人たちを集める。
なんといっても、一年の労をねぎらう豊穣祭の季節なのだ。大人だってこの季節ばかりはゆっくりと木々を眺めながら、林檎のエールを飲み、軽食なんかつまんでゆっくりすることが許されよう。
甲斐甲斐しくローザを補佐するセシルが、林檎酒の入ったグラスを手渡す。
「ここに着いてからも、ずっと忙しくしてただろ。カインも少しゆっくりしろよ」
 セシルの笑顔は、十余年前よりも柔和で、大人としての円熟味を感じさせる。が、やはり俺やローザ、セオドア――かつて父の威光や功績、そしてその文句のつけようのない人格の前に遠慮や反発心を感じていた彼が心配するように、やはり少し大人しすぎる気がする。
「ああ、お前もそうするがいいさ、セシル」
 氷の入ったペールから、林檎のエールを取り出し、セシルのためのグラスに注ぐ。一体、月から帰ったセシルの心を占めているのはなんなのだろう。盟友も、家族も、そしてもう戻らないように思われた兄でさえ、帰ってきたというのに。
 その時、少し慌てた声が子供たちのいるほうから聞こえてくる。
「アーシュラ、そんなに急がないで! ゆっくり昇ればいいんだよ」
「大丈夫よ、セオドア。私を誰だと思っているの? 聖なるホブスの山で修業したモンク僧よ。ほら、心配しないで。それよりしっかり支えていてね」
セオドアがおっかなびっくり木の下からはしごを支え、頭上のアーシュラを見上げる。そうして、身のこなしも軽やかに、偉大なるモンク僧の一人娘は林檎の木へと近づくべくはしごを上り、その枝に手を伸ばす。赤く、艶やかに実った林檎を一つもぎ取ると、彼女は木の下の大きな籠にそれを放り投げる。綺麗な放物線を描いて、林檎は目標の場所に見事に収まった。
「ね、大丈夫だったでしょう?」
 こくん、とうなずくセオドアの姿がいつかのセシルに重なる。あの頃の内気で、遠慮がちな少年が、いまや救国の英雄になったように、いつしかセオドアもバロンの国を正しく導く王になるんだろう。たまに戯れか本心かわからないが、「竜騎士に憧れることがあるんです」と話す彼の将来は、まだ未知数だ。
「カインは、息子を――セオドアをいつも気にかけてくれるね。お前だからこそ、安心して彼も、赤い翼も預けられる」
「よせよ、水臭い。当たり前のことさ、お前の願いを聞くのは。賢く、懸命なセシル王の命令に反することなどもうできんよ。それに俺は――この十年の埋め合わせをしなくては」
 何に変えても守りたかった、他でもないセシルとローザの子の面倒を見ることがあるなんて、彼が生まれたという話を遠く伝え聞くことがあっても、想像もしていなかった。
「埋め合わせなんて――お前こそ真面目が過ぎるよ」
 その時、幼子のように黙々と、昨晩ローザとセオドアが作ったという焼き菓子を口にしていたゴルベーザが、珍しく口を開く。
「そこの竜騎士の行いについて、誰かが責を負うならば、私以外に他にないだろう。しでかしてしまったことも到底贖えることではないが、それでもまだ私は生きている……お前と弟には、すまないことをした」
 その場にいた誰もが口を閉ざした。聞こえてくるのはいまだ林檎の収穫に励む子供らの声だけだ。
 その場の空気に耐えかねたのか、ローザが立ち上がり、口を開く。
「そうだ、今晩にはシドとルカ、それからリディアが来るならきっとエッジも少しくらいは顔を出すかもしれないわ。今からご馳走の準備をしなくてはいけないの。その――もし、良ければお兄さんも一緒に手伝ってくれませんか? 貴方には色々聞きたいことが前からあったし。そう、もちろんお庭のハーブについても聞かせてほしいわ」
「……私で本当によいのか?」
 その言葉が示す事柄は、おそらく単純にあいつが役に立つかどうか、ということではないんだろう。しかし、我らがローザはその問いにも、ええ、もちろんよ、と微笑む。
 さあ、行きましょう、と義理の兄の屈強な肩に白く、小さな手でそっと触れ、先に歩き始める。それに答えるように、ゴルベーザはこちらを一瞥した後、ローザの後を追って、厨房へと向かっていった。
「……二人きりだね。こんな風に時間を過ごすのは久しぶりな気がするよ」
「ああ、そうだな。せっかくだし、少し歩かないか?」
 俺の言葉に一も二もなく、セシルは頷いた。
 
 ハイウインド邸の傍には、森へと通じる裏庭とは反対の方に小さな小川が流れていた。幼い時分にはセシルやローザとその川で遊んだこともあった。夏の真昼の太陽をうけ、きらきらと光る水を掬い、お互いに掛け合ったり、戯れに釣り竿を垂らしてみたりすることもあった。
 この小川に連れ立って訪れるのも、その頃ぶりだろうか。
 河原の小石を手に取り、水を切って跳ねるようにそれを投げる。投げた石は数回跳ねて、そのまま水中へと音を立てて消えて行ってしまった。
「おかしいな、昔はもっと上手かったんだがな」
「そうだね、カインはなんでも上手だったよ、僕よりも――今もね、本当に自分がここにいていいのか、分からなくなるんだ」
 陽に照らされた小さな流れを見つめ、セシルは自嘲的に呟く。
「お前以外に誰が王になれるというんだ。俺は大体、一国の長になる器じゃない。何の因果か、競い合っていた飛空艇団の団長になるなんて、思いもしなかったよ。だが、この歳になって、物事には偶然もあるが、起こるべくして起こったことを、そして選び取った道を運命と呼ぶのだと、思い知ったよ」
 世界を放浪し、ローザとセシルから半ば逃げるように離れた先で、自らの弱さに打ち勝とうと修業を積んできたが、結局は彼らの元へ引き寄せられた。そして、その道を選び取ったのは、それとは知らず、ミシディアでセオドアに手を差し伸べた瞬間だったのだ。
「セシルはどうなんだ、お前はこれまで何を選び取って来た? その気になれば、月へ残ることだってできたはずだ。でもしなかった」
「……そう、だね」
 セシルは頷き、それから俺の目をじっと見つめると、両の手を俺の肩へと伸ばす。それから訥々と、言葉を選びながら、長い時間をかけて己が胸の内を語ろうとする。
「本当はね、ただもう失いたくない、って思っているだけなんだ。陛下を慕って、暗黒騎士になったことも後悔していないし、バロンの王になったことも、それが自分に与えられた役目ならば、と受け入れ、納得しようとしてきた。ローザもシドもセオドアも、そして今は君も、兄さんも傍にいてくれて、これ以上なく幸せなんだ」
 目を細め、自分を支える者を思い出しているのか、柔らかい表情をセシルは浮かべたが、その声が少しずつ震え始めた。
「僕は――みんなそれを真月で思い知ったと思うけど、きっと彼らが思うほど強くない。またいつか、自分の心の弱さに負け、皆に危険を及ぼす存在になるかもしれない。また自分の手で大切な人たちを傷つけるかもしれないのが許せないし、恐ろしいんだ」
 セシルが語る言葉は、すべて覚えがあった。
 おれも、もう二度と、幼馴染を、守るべき民を、そして異国の仲間たちを傷つけたくなかった。そして、その恐れこそが一等、大切な人たちを傷つけていたのを知ったのは、十余年が経った今だ。
「僕は、案外欲張りだったみたいだ、もう二度と、みんなを、お前を失わない保証をいつも求めてる」
 どんな言葉があれば、彼はその顔を曇らせることなく、今この時を、俺たちと何の憂いもなく過ごすことができるのか。同じ恐れを持っていた身なのに、いや、だからこそ、絶対の保証などしてやることはできないのだ。
 それでも、まだできることはあるはずだ。
 その時、あいつに貰った林檎がまだズボンのポケットに入っていたのを俺は思い出す。
赤く、蜜を含んだ重たく、甘い香りのする実をセシルの胸先に突きつける。

「定められた運命の通り、一生を過ごさねばならないなんて、俺はごめんだ。本当なら俺はバロンを出た後、お前に再び会うこともなかったし、もちろんセオドアと共に赤い翼に乗るなんて、番狂わせも起こらなかった。なあセシル、お前が本当に欲張りなら、すべてをこぼさず、その腕で抱きとめろよ。俺も、ローザもセオドアも、ゴルベーザもまだお前の目の前にいるんだ。いつか、ローザが放り投げたあの林檎を、余さずその腕で抱え止めたように」
 おずおずとセシルが右手を差し出すので、林檎を手渡してやる。
 親友は、その果実を手に取り、すん、とその甘やかな匂いを嗅げば、しゃり、と小気味のよい音を立てて、一口齧ってみる
「その林檎はゴルベーザが選んだんだ。あの、何を考えているかわからない男が、毎日裏庭に出て、林檎の収穫時期を気にするようになるなんて、まるで信じられないだろ?」
「……ああ」
 そう肯定すると、セシルは、一口齧った林檎を差し出し、同じように反対側を俺に食べさせようとする。
「ほら、カインも食べてみなよ。兄さんの見立ては完璧だ、――そうだなあ」
 セシルと同じようにその林檎を口にすれば、よくよく甘い蜜の味がする。
友人は何かを考えるような顔をした後、覚悟が決まったように、うん、と頷き、もう一度俺の目を見据え、こういった。
「できるだけ、がんばってみるよ。でも、もしかしたら、僕では抱えそこなう林檎があるかもしれない。だから、その時は――カイン、お前をあてにしてもいいかい?」
 忘れもしない、十余年に渡る俺の旅が始まったその日。俺の横に立つ、まだ失うことを知らない、自信と希望に満ちたセシルの顔を思い出す。そして、親友と共に戦えるめったにない機会に、自然と胸が高鳴っていたことも。

 その日から大きく変わってしまったことも、失ったものもあるが、唯一変わらないのはこの答えだけかもしれない。頑固で、意地っ張りで、どこか遠慮がちで、他人に頼ることが苦手な友人殿の愚問にあの日と寸分変わらない気持ちでこう答え、彼の手を握る。

「ああ、任せておけ! 全部、拾ってやるさ、必ずな」