スィンク・オブ・ミー

 業火に包まれた劇場の中、撃たれた片目を押さえながら、これは確かに報いなのだと思った。
 燃え盛る建物の中、倒れているのは自分に心酔していた部下たち。金とクリスタルで彩られた豪奢なシャンデリアも落下し、無残な姿を晒している。少年の頃から時間をかけて築いてきた組織も、この手で支配するはずだった世界も、腹心の部下もこの一晩で全て失った。
 チェズレイ・ニコルズが犯したただ一つの失敗は、あの日楽譜店で出会った男ーー影のようにチェズレイの行く先へはどこへでも付き添い、支え、そして今、全てを自分から奪い、その日々がまるで幻だったかのように忽然と目の前から消えた「ファントム」に胸襟を開いたこと。
 炎の中、とめどない憎しみと痛みだけが、ぼろぼろの体となったチェズレイを突き動かす。
 ずっと自分は完璧だと信じていた。母のように決して与えられることのない愛を求め、濁りをこじらせ、その末に破滅することだけはないと思っていた。けれど待っていたのは、同じ結末。
 愛などなかった両親の間に生まれ、堕ちていく母を救えず、己が父を謀った自分のような人間が、愛など得られるはずがないことなどいつも分かっていたのに、見て見ぬふりをした。その報いが、今訪れているのだ。
 けれどまだ、かろうじて命がある。
 ならば、何年かかろうとあの男を追い詰め、目の前に立ち、跪かせ、裏切ったことを絶対に後悔させてやる。
 いよいよ炎の勢いが強くなり、あちこちで柱が折れ、天井の崩れ落ちる音が聞こえてくる劇場のロビーで、これまでの人生で他人には見せたことのない、おぞましく濁った表情を浮かべ、チェズレイは地獄の底まで響くような、高らかな笑い声を轟かせた。

 こうやって冷戦時代に築かれた地下道から劇場へ忍び込む日がくるなんて思いもしなかった。やはり、ただただ惨めだ。特に今日のように、部下に裏切られたたあげく、隠し財産を取りにいく日には。
 しかし、漏れ聞こえてくるオペラの楽音だけ変わらず甘美だとチェズレイは思う。たとえ別れを告げた恋人に「自らを思い出せ」と告げる曲であっても。

♪別れの時には 私を懐かしんで
 私を思い出して 時々でいいから
 どうか努力してみると誓って

 ついこの間までは堂々と正面からどんな場所にも入っていけたというのに。どんな扉もチェズレイを拒まず、この世の全ての音楽が自分のために奏でられているかのように感じていた。けれど、今は違う。

♪もし時間を見つけたなら
 少しでいいから私に思いを馳せて
 
 11月20日の晩に起きた事件は、表向きには無差別なテロとして処理された。どこの劇場も同様の事件を怖れ、警備はこれ以上ないほどに強化されているはずだが、黴臭い地下道はあっけないほどにノーマークだ。であれば、このまま公演の合間を縫い、速やかに目的を果たすだけ。
 しかし、負傷した片目には包帯を巻き、高らかな歌声を聴きながら劇場へ侵入するなんて、まるで自分こそが「音楽の怪人」になってしまった心地だ。
 親に捨てられ、心を捧げた歌姫には裏切られ、地獄の業火に包まれて消えた怪物。今の濁りきった己にはお誂え向きの役回りに違いない。
 シェルターへの避難口として設けられた隠し扉から、チェズレイは劇場の地下練習室へと入っていく。
 湿気に弱いピアノを地下に置くなんてあまり褒められたことではないが、このピアノは「それでいい」。手袋を脱ぎ、遠い昔誰かと奏でた『メヌエット ト長調』を奏でれば、どこかで仕掛けが動く音がした。
 ピアノの横に置かれた、楽譜の収められた本棚を横からわずかに力を加えて押せば、鉄製の古い扉が現れる。手持ちの鍵をドアノブに差し込み、長いこと閉ざされていた部屋へとチェズレイは足を踏み入れる。
 コンクリート材で作られた無機質なその部屋には、長期のバカンス用に仕立てられたハイブランドの大きなトロリーケースと、金細工の施された紫の豪奢な小箱の乗った机が置かれていた。そっと息を吹きかけて、小箱に薄く積もった埃をはらえば、母譲りの長く白い指でその蓋を開く。
 聞き覚えのある曲――「仮面舞踏会」という名前だったろうか――が、箱に仕込まれたオルゴールから鳴り始める。
 小箱の中に入っている母の形見のアクセサリーや偽名で開設した貸金庫の鍵などが、今のチェズレイに残された唯一の財産らしい財産だ。
 復讐の手始めにすることはもう決まっている。夫に先立たれた、哀れな未亡人に扮して銀行へ赴き、貸金庫から当座の活動資金を確保すること。全く、資金ひとつ動かすのにも顔を盗まれている今は一苦労だ。
 デスマスクのようにも見える、精巧な変装用の「皮」を、片目の包帯を外したチェズレイはまだひりつく己が肌の上に重ねる。
 トロリーケースの中から体型補正用のボディスーツ、そして生前ピアニストだった母が気に入っていたドレスと毛皮のコートや帽子を取り出し、今も胸を強く焦がす「あの男」が直々に手ほどきをした技でもって、もうこの世には存在しない「女」の姿を再現していく。
 濁りを深めることがなければ、今もきっとピアノを弾いていた彼女。
 全てを終えた時、手持ちの小さな鏡の中に写っていたのは、雪のように潔癖な美しさと少しの儚さを帯びた、チェズレイの母そのものだった。
 先程まで聞こえていた高らかな歌声は、隠し部屋の中では途切れ途切れにしか聞こえない。

♪…はしおれ、夏に生まれた……も消えていく
 季節がうつろうように また……も
 だけど約…して 時々は

 昨晩までチェズレイ・ニコルズと呼ばれていた青年は、耳に届くかすかなメロディに合わせ、軽くその歌を口ずさんでみる。
「わたしのことを思い出して」
 この歌声も姿も、今は自分自身のものではないけれど。いつか盗まれた顔、そして声で。この言葉をかつて愛し、胸襟を開いた男の耳元で囁こう。その甘美な瞬間を思うだけで、激しい片目の痛みも、心を占める苛烈な憎しみも、全てが今にもトンでしまいそうな快楽に変わる。
 目を見開き、醜く大口を開いて歯茎を剥き出しにしながら、身悶えするようにしながらその「女」は笑い、内心こう呟いた。
 あァ、仮面の詐欺師失格だ――母はこんな表情は浮かべなかった、絶対に。