豊穣祭の夜に

 バロンの郊外に位置する、改装により往年の壮麗さを取り戻したハイウインド邸には、豊穣祭の晩、多くの見知った顔が訪れた。
 いつも飛空艇のメンテナンスをしてくれるシドや、いつもの作業着を脱いで、可憐なワンピースを身に着けたルカさん。ミストの村から幻獣に乗り、颯爽と現れたリディアさんと少し緊張しているようなクオレ。ああ、それから、リディアさんを見るといつも何か言い難そうになってしまうエッジさんも。
 多忙なダムシアンのギルバートさんとハルさんからは、真月への旅で発想を得たという、豊穣祭を祝うための新しいお菓子「月餅」が送られてきたし、ミシディアのパロムさんとポロムさん、それから賢者になるために努力を重ねるレオノーラさんも後からハイウインド邸を訪れるという。
 忘れてはいけないのが、ファブールからヤンさんが護衛をつけるといっても、単身で向かうと言って聞かなかった、僕の幼馴染のアーシュラ。数か月だけ年上の彼女は、普段はとても礼儀正しいのに、一度言い出すと聞かないことがたまにある。大人はみんな名付け親の影響だ、と言って笑うけれど、僕の知っている父さんの姿とは全然違うから、不思議な気持ちになる。
 僕、セオドア・ハーヴィにとって父であるセシル王は、そばにいても、いつもどこか遠く離れたところにいるような感じがする人だった。
 月明かりを手繰り寄せて作ったような、僕とは違う、白銀の美しく、長くなびく髪や、他の誰とも似ていない、不思議な瞳の色。そして誰の心でも開かせてしまうみたいな、穏やかで優しく、どこか懐かしくなるような声をしたその人。
 父を見ていると、どこかの誰かがうんと慎重に、そして思い入れを込めて作った、完璧な被造物を見せられている気持ちになる。
 そして、皆の言葉で己にもその血が流れている事実を、否が応でも思い出してしまう。

――セオドアさまは、セシル王の生き写しね。
――将来はきっと聖騎士よ!

 威厳ある王であり、救国の英雄である父に似ている、と言われることをただただ誇らしく思えた頃はとうに過ぎた。
その言葉はいつだって、重圧として肩にのしかかるものであったり、自分の思う道を探しだそうとする脚にかせられた重苦しい枷のようにしか思えなかった。
そう、あの時までは。
 バロン城の謁見室にて、カインさんが聖なる祝福を受けたのと同じ時、光を失い、倒れた父さんはとても頼りなく、小さく見えたし、その事は今だって少なからず僕に驚きと、言葉にできない戸惑いを与えるんだ。真月での闘いを経て、青き星に戻ってきた今、やっと少し父に向き合えるようになったのは、あの時見た姿のせいかもしれない。
 完璧に見えた父さんの心にずっとあった、暗黒騎士としての怒りと後悔。僕は時々それに思いを馳せてみる。

 豊穣祭の間、寝室として僕に与えられたハイウインド邸の部屋には、裏庭に面した窓があり、また夜風を浴びるのにちょうどいいバルコニーも設けられていた。答えが出ないようなことについて考える時は、少し頭を物理的に冷やしたくなる。いや、ブリザドとか水とんの術とか、ああいうのは勘弁つかまつりたい。
 バルコニーに出ると、風にすこし甘やかな匂いを感じる。今日、セオドールおじさんが選んだ林檎の木から香っているのだろうか。林檎の木々の奥には、暗く、深い森が広がる。小さい頃、父さんたちはよくあの森へ遠出したと言っていたけれど、昼間なら恐ろしくないのだろうか。
 僕はまだ、父さんのことを何も知らないように思う。幼い頃は何も考えることなく、彼のことを慕うことができたのに。今では、父の優しさも思いやりも、そして期待も、何もかもが重たく、耐えられなくて、逆恨みするように彼を疎むばかりだった。
どうにもならないことばかり考えていたその時、不意に左隣の部屋から、窓が開く音がした。
そちらを見てみれば、同じように窓を開けて、夜風で涼んでいるカインさんと目が合った。
「どうしたセオドア、恋の悩みでも持て余しているのか?」
「ちょ、ちょっと!」
 こんなこと誰かに聞かれでもしたらと思うと、気恥ずかしくなってしまう。
僕は慌てて、唇に人差し指を添えるジェスチャーをする。それにしても、彼がこんなデリカシーのない質問をするなんて。よくよく、その顔を覗きこんでみれば、顔全体に少し赤みがさしている。ああ、酔っているのか。
 階下では大人たちが、久方ぶりの息抜きの機会とあって、母さんとセオドールおじさんが用意したという御馳走に皆で舌鼓を打ち、バロンで作られた林檎酒やそのほかの蒸留酒、そして、エッジさんがエブラーナからはるばる運んできたお米のお酒――口当たりがよいらしく、物珍しいそのお酒は大人たちに大人気だった――を飲んで、大いに言葉を交わしていた。
 普段お酒を飲むことなどほとんどない父さんでさえ、少し赤ら顔になって、楽しげに過ごしていた。
「カインさんはもう皆さんと話さなくていいんですか? まだ宴会は続いているんでしょう」
「……いや、いささか酔っ払ってしまってな、少し風にでも当たろうと思ったんだ。お前は眠れないのか? それなら厨房でホットミルクでも作ってやるぞ」
 アーシュラや、リディアさんが連れてきたクオレは別の部屋で先に眠りについた。リディアさんと離れるのをクオレが渋るのを見て、彼女とも親しいエッジさんが寝かしつけに向かったみたいだけど、その後、階下からあのにぎやかな声が聞こえてこない所を見るとば、一緒に眠ってしまったのかもしれないな。
 それはそうと、カインさんをはじめとする大人たちのこの、僕に対する子ども扱いはどうにかならないものか。
「僕、もうとっくに十の齢を過ぎたんですよ。そんな風に、まるで……赤ちゃんみたいに扱わないでください!」
「おお、そういう背伸びしたがるところなんて、昔のローザにそっくりだ」
 慕ってやまないカインさんが、まだまだ僕を大人と認めてくれないことは、いつだってもどかしくって、僕は少しむくれてしまう。
「なあ、セオドア。酔いが少し醒めるまでの間、少し話に付き合ってはくれんか。こっちの部屋へ来いよ」
「……いいですよ。ただ、お説教ならやめてくださいよ」
「ああ、もちろんだとも」
 今しがたまで腹を立てたっていうのに、その珍しい提案に、僕は少し浮足立つ。普段共に赤い翼として活動しているとはいっても、やはり彼とゆっくり言葉を交わせる機会は特別な気持ちがして嬉しいのだ。

「入りますよ、カインさん」
 すぐ隣の部屋の扉を叩けば、おう、と返事が返ってくるので、すこし身構えながら中に入る。
 長く、つややかな金の髪を、窓から入ってくる夜風になびかせながら、カインさんは引き続き、外を眺めている。
「何か面白いものはありました?」
「いや、ここに帰ってくるのも久方ぶりだなと思ってな」
「そうなんですね」
 窓の外を眺める彼の隣に並び、郷愁の浮かぶその顔を見てみる。
「その……カインさんのお父上って、どんな人だったんですか」
 バロンの歴史に残る、勇敢な竜騎士を父に持つ彼は、同じくらいの年頃の頃、どんな気持ちだったんだろうかと気になった。懸命なカインさんのことだ、僕と父さんのように素直になれないなんてこと、ないと思っていた。
「そうだな……親父は誰よりも高潔な人だったよ。それだけでなく、子供だったセシルの遊び相手に俺とローザを宛がってはどうかと、陛下に提案するほど、気持ちの優しい人だったが……だからかもしれないな、他の子どもにも分け隔てなく優しい父が、そんなのは馬鹿な考えだとわかっているが、憎く思えたこともあったよ」
「え?」
 帰ってきた答えは意外なものだった。
「お前ならよくわかるだろうが、立派な親を持つ子の気持ちはいつだって複雑さ。偉大な人であるよりも、もっと平凡でもいいから、俺だけの父さんであってくれればいいのにと思っていた。父の気高さやその武勲に憧れてやまなかったっていうのに、身勝手なものだと今は思うよ。だからとは言わんが、お前のセシルへの気持ちの一端くらいは想像できるつもりだ」
 カインさんはそう言うと、僕の髪に手をやり、頭を撫でてくれる。
 ああ、小さいころ、父さんも僕が何かするたび、抱き上げたり、頬ずりしたりして褒めてくれたっけ。今ではそんなことも本当に少なくなったけれど。過ぎた日の思い出が過ぎり、つい目を伏せる。
 そんな僕の顔を見て、カインさんは少し思い違いをしたみたいだ。
「お前はこういう子ども扱いは好かんのだったな、すまない」
「別に、そういうつもりは、」
 勘違いされてしまった。焦って訂正しようとしたその時、不意にカインさんが、最近背丈も伸びて、結構な重さがついてきたはずの僕をひょい、って具合に軽々抱き上げる。
「うわっ! こんなの、びっくりするじゃないですかっ!」
 降ろしてくださいよ、と懇願する僕が聞こえたのか、いささかカインさんは不満そうだったが、速やかに地上に足をつけることができ、僕はほっと胸を撫でおろす。
「……もっと子どもの頃に、こういうことをしてやればよかったと時々思うよ」
 その言葉にどう返すべきか考えあぐねていると、そういえば、と思い出したようにカインさんが口を開く。
「なあ、セオドア、お前が思っているほどあいつは――セシルは完璧じゃないぞ。成し遂げたこともその血も、確かに類い稀れなものだが。でも、俺が見てきたお前の父は、他の人間と変わらない、ありきたりな悩みに向き合い、傷つき、そして何とかそれを乗り越えようと、いつだってもがいていたよ。今もきっとそうだ」
 それから、彼は力強く、まるで何かを大事な物を託すみたいに僕の肩を叩く。
「だから時々は、あいつの話も聞いてやれ。お前の一言がセオドールを青き星へ呼び戻したように、取り繕うことばかりが上手くなった俺たち大人には思いもつかない、若いお前達の答えが、セシルの力になるかもしれないだろ」
「……は、はい!」
 真月に行くまで、思いもしなかった。未熟な僕が父さんの力になれることがあるなんて。カインさんの言葉に、同じ新世代の仲間達の顔を思い浮かべる。みんな、突然の青き星の危機に戸惑いながら、それでも無辜の民や大切な大人たちを守ろうと努力していた。彼らを思うと、いつだって勇気が湧いてくる気がした。
 それじゃあ俺はそろそろ、お前の親父殿の顔でも見にいくとするよ、と呟き、カインさんが部屋の外へと出て行こうとするので、僕も慌てて追いかける。
「少し、気持ちが楽になりました! カインさん、ありがとうございます」
 会釈をする僕に、あんまり早く大人になってくれるなよ、と微笑み、彼は階下へ向かっていった。

 物心ついた時から、どこか遠く感じていた父さん。この一年ほど、そんな彼のことを少し考えるようになった。
 本当に父さんを遠ざけ、理解しようとしなかったのは僕の方だったのかもしれない。遠い月で垣間見た、父さんの抱える暗黒騎士としての過去、そして王としての苦悩を、僕が全て理解することはきっとできないけれど。
 それでも明日の朝、おはようと話しかけ、いつもより少し長く話すことから始めてみようか。
 豊穣祭を迎え、一年のどの時よりも煌々と輝く、大きくておいしそうなマフィンみたいな月をベッドに入りながら眺めているうち、不思議と心が温かく、満たされていくのを感じた。そうして、気が付いた時にはもう夢の中。抱えていたはずの悩みも、何もかも手放して、安らかに眠りに落ちることができたんだ。