2/3 Bada bing bada boom (ほら、なんということ!)

 今まで書きためた数々のデッサンを確認しながら、フリオニールはあたりのついた木彫像に迷わず道具を打ち込んでいく。もう、アトリエの外に立って溜息を付きながら携帯電話にメッセージを残すのは止めた。
 時々額の汗をぬぐいながら、頭の中に生まれたイメージを木材に刻み込むため、黙々と作業を続ける。穏やかに笑みを浮かべた、姉のようにも弟のようにも見える、美しいヘルマプロディトス――ギリシャ神話の両性具有の青年神――を作りたい。
その思いは幼い頃、ルーブル美術館で初めて「眠るヘルマプロディトス」を見た時からずっとフリオニールの中にあるものだった。何度も自分なりにそのモチーフを彫ろうと試してみたけれど、ぴったりのイメージが頭に浮かびもしなければ、雰囲気に合致するモデルも 見つけられず、断念してきた。そう、あの時までは。

一年と少し前のあの日、幸か不幸か、よく通っていたベーカリーが改装のため、臨時休業に入ってしまった。いつもそこで木彫用のパンと昼食を買っていたのだが、空いていない以上はどこか別の場所で済ませるしかない。少し考えた末、そこから一番近い、学生街の中のカフェに入ることにしたのだ。
 店の中に入ると、ちょうど目の前にあるカウンターからある青年が立ち上がった。
こちらを向いた彼の、柔らかく波打った真珠色の髪やその柔和な表情、そして衣服越しに 感じられる、均整の取れた優美な体形。自分と彼以外の時間が止まったように感じられるほど、一目でフリオニールはその人に強く惹きつけられた。
 自分が作りたい彫刻が出来上がって、動いて息をしていたなら、きっとこんな風に違いないと自然に思えた。
 それは、フリオニールが自分にとってのヘルマプロディトスを発見した瞬間だった。
青年はすれ違いざまに微笑み、他愛もない挨拶をしてくれたが、一方のフリオニーといえばまだ胸が高鳴ったままで、それに小さな声で返事を返すこと以外、声をかけることはおろか、まじまじと見つめることもできなかった。
 それからはアトリエで昼食を取る代わり、フリオニールにとってのヘルマプロディトスに出会ったカフェに足を運ぶ回数が増えた。会えない日もあったが、カウンターで何か飲みながらペーパーバックを読んだり、ノートに向かっている彼に運良く会えると、フリオニールはその度、とても嬉しくなった。少し気は咎めたが、遠くの席に座ってこっそりスケッチを取ってみたりすることすらあった。
彼があんまり美しくしいもので、気恥ずかしさから、つい目が合いそうになるとわざと目線を逸らしたりしていたが、彼だってずっと店に通ってくれるとは限らない。
いつまでもこうしているわけにはいかない。次に会った時こそ、きっと声を掛けてモデルを頼もう、とフリオニールがいよいよ決心したのは、そのヘルマプロディトスの名前を知ることになる一週間前だった。
 そして実際に言葉を交わしたのが、一年前の1月4日。
「何だい、それ。もしかしてナンパのつもり? ずいぶん婉曲的なんだね」
 目の前に、ずっと近くで見てみたかったヘルマプロディトスのような彼がいる。それだけでも緊張してしまうのに、追い討ちをかけるようにこんな言葉を言われてしまえば、ただただ 赤面するしかなかった。
それでも心に決めたのだ、彼をモデルにすると。
 そこからはとにかく必死で、実は会話の内容をあんまり覚えていない。話を切り出すきっかけとして「クラスメートとカンパしてモデル料を出す」というのも話をした気がするが、最初から他の人間に、彼を見せるつもりはなかった。そもそも授業のヌードデッサンのモデルなんて勝手に講師が決めてしまうのだし。
 それでも、奇跡は起きた。穏やかに微笑む、美しい青年――セシルはフリオニールの願いを聞き入れてくれた。
「助かるよ! 俺の名前はフリオニール」
「僕はセシル。こちらこそよろしく、フリオニール」
 互いの名前を明かして握手を交わした時に、神がうんと気を使って作り上げたような、色の白く、ほっそりとしたセシルの手の美しさに、誤って壊してしまわないかと少し心配になってしまったことを未だに覚えている。

 セシルは、美しい。目を伏せた時、長い睫が映える目元や均整の取れた背中、白く透き通るような肌。その一つ一つを眺めながら、スケッチブックにそれを写し取るだけで最初は満足だったのに。次第に違う思いが自分の中に目覚めていくのを、フリオニールは必死に見ないようにしていた。作品作りのために声をかけたのであって、別の感じ方をするなんて、全くフェアじゃないと感じていたのだ。
 けれど、セシルにモデルを頼んで1ヶ月が過ぎた頃、その思いはいよいよ、否定しがたいものへと変わっていった。
 その艶やかな肌の手触りを確かめ、腕の中に抱き、彼自身は気づいていないようだったが、セシルがどんなに美しいのか――ルーブルの「あの」像にもきっと負けない、といつも穏やかに微笑む人に教えたかった。
 2月4日のその晩、ラジオを聞きながら、フリオニールはセシルと初めて口付けをし、体を重ねた。慰撫するようにセシルは戸惑う自分の手を取り、髪を優しく触ってくれた。それは とても安らいだ気持ちだったし、もちろん興奮もあった。お互いを高めあい、満たしきった時、ふと目の前のセシルが泣いているのを見て、思わずフリオニールも泣きそうになったけれど、照れくさくって、誤魔化しながら彼の目じりの涙を拭った。その涙は、セシルが冷たい石や乾いた木の彫像ではなく、確かに生身の人間であることの証左だったのに。

 あの日から、セシルとフリオニールは、モデルと美術学生ではなく、友人のような、恋人のような、微妙な間柄となった。お互いの学業の合間を縫って会うひと時はとても楽しかった。お互いに知らないことを教え合う時には、狭かった世界が広がるように感じられたし、二人だけの持ち物が増えるみたいで、純粋に嬉しかった。
 けれど、セシルはどうなのだろう。一緒に時間を過ごすことが、彼にとって幸せなのか、いつからかフリオニールは自問自答するようになった。正直なところ、初めて体を重ねてからずっと不安だった。2歳も年下で、経験も浅い自分は、はたして彼の欲しいものを十分に与えられているのか、と。それはベッドの中だけの話ではなかった。
 どんなことも初めてのことばかりで、戸惑っているうちに優しいセシルは、いつもポーズを付けられるみたいに手を取ってくれる。だけど、彼はいつまで待っていてくれるのだろう。おろおろしてばかりのフリオニールに、明日、セシルが「君じゃ満足できないみたい、ごめん」と言い出す日が来るかもしれないと思うと、無性に怖かった。
 本当は気兼ねなく、美しいその人に触れたくて仕方がないのに。蕩けてしまいそうになるくらい、満たしてやりたいのに。そして、そんな彼を一番近くで眺めていたいのに。どうして仲違いなんてしまったんだろう。
 一年前のあの日のように、今日もフリオニール行き着けのベーカリーは休業日だった。本当は避けたかったのに、気付いた時にはいつものカフェに足が向いていた。
「――それで、まだ帰ってこないわけなんだ?」
 一丁前にギャルソンエプロンなんか身に着けている、店員のバッツがカウンターの中から、向かいでコーヒーを飲むフリオニールに声を掛ける。フリオニールの手元には午前中の作業の参考に使ったスケッチブックが置かれていた。
「ああ……もう、帰ってこないかもしれないな」
 それを聞くとバッツは大笑いし、フリオニールの肩を叩く。少しはこっちの気持ちも考えてくれ、と言いかけた時、その言葉に重ねてバッツが話し始めた。
「フリオニール、それはないんじゃないか? だってあいつ、大学校グランゼコールの学生だせ? エリート学生がいつまでも学校サボっていられるわけないだろ。普通に考えて」
「そうかもしれないが――この所、あいつ誰かとずっと電話ばかりしてるし、帰ってきてもそいつの所に行くかも」
 思わず口から洩れた不安に「ああ、俺ってどうしようもないよな」と独り呟き、頭を抱えたフリオニールを尻目に、バッツは置きっぱなしにしていたスケッチブックを取り上げると、ぱらぱらページをめくっては「よく書けてるじゃん、さすが美術学生だな」と講評した。
 それを元の場所に戻せば「顔上げろよ、フリオニール」となだめるように声を掛ければ、いつだって大体適当なことしか言わない彼にしては、ふざけたところのない、優しい口調で言葉を続ける。
「セシルさ、喜んでたよ。ずっとお前が自分の事、気にしてるの分かってたから、声掛けられて。それに、お前があんまり「すれて」ないもんだから感動しちゃった、って嬉しそうにしてた。これは皮肉じゃないぜ。まあ、自分より経験がありそうな美人の恋人を持つと不安になるのも分かるけどさ、そのセシルがお前を選んだんだろ? 愛されてるんだよ、もっと自信持てよ。ちょっと……フリオニール、お前、煙草なんか吸うのか?」
 フリオニールはズボンのポケットから昨日買ってきた煙草をおもむろに取り出すと、とにかく冷静になりたい一心で火を灯す。
「ははぁ、さては誰か悪いヤツにすすめられたな? まあでも、とにかく――うちの店でお前がいない時、セシルが電話してたのは、あいつの兄ちゃんだよ」
「なんだって!?」
 その言葉を聞いて盛大にむせたフリオニールを見て、再び大声で笑うバッツの声が店内に響く。
「あー、その様子なら、早く言ってやればよかったな。でもさ、お前、ここ2週間は違うけど、最近全然出てこなかっただろ?寂しがってたよ、セシル」
 長らくセシルに会えなかったのは、制作が行き詰っていた事もあったが、彼を愛していく自信、今までのように愛される自信も無くしきっていたのが大きかった。彼から届くメールや 電話のメッセージを確かめては、無力感に苛まれている自分が情けなくて、よく部屋のソファーで膝を抱いていたのを思い出す。
 でも、そんなのは子供っぽい独りよがりだ。実際、セシルの気持ちを分かっていなかったのは自分のほうで、彼の寂しさも知らず、一人で勝手に怯えていた。
フリオニールの胸に、じわじわと苦い気持ちが広がっていく。頭を冷やすのに、煙草なんか必要なかったのだ。着けたばかりのその火を消し、灰皿に入れてしまうと、残りのパッケージをフリオニールはバッツに差し出した。
「ライトさんが来たら、あげてくれよ」
「了解! そのほうがいいぜ、ほんと。あれ……? 今、鳴ってるのお前の電話か? いいのか、出なくて」
 かすかに聞こえる着信メロディーは、確かにフリオニールの電話のものだ。上着から急いで携帯電話を取り出すが、間に合わない。画面に表示されているのは「不在着信あり・メッセージ一件あり」というメッセージと、相手の名前。フリオニールは大きく目を見張る。だって、それをかけてきたのがとても彼だとは信じられなくて。
しかし詰めていた息を吐くと、やがて覚悟を決めたように耳に電話を宛て、メッセージを再生し始める。

『フリオニール、ずっと返事しなくてごめん。今の君に信じてもらえるか分からないけど、二週間ずっと、兄さんの家にいたんだ。明日パリに帰るよ。TGV(高速鉄道)に乗って帰るから、リヨン駅の地上駅のホームで8時にね……』
メッセージの再生が終わる直前、「じゃあ」と付け足したセシルの声は、若干強張っているようだったが、それでも、とても懐かしくフリオニールの耳に響いた。電話を元通り上着のポケットにしまうと、フリオニールはそっと目を伏せた。
「電話の相手は?」
 まるで聞く前から答えが分かっているような、にやにやとした笑顔をバッツは向けてくる。
「……セシル」
「Bada bing bada boom!(ほら!) だから言っただろ、愛されてるって」
そう告げたバッツは、フリオニールの肩をそこそこの力を込め、引っぱたいたのだった。