2/4 Corpo e Alma(体と魂)

 列車を降りたセシルがパリ・リヨン駅の駅舎に入ると、同じく高速鉄道TGVから降りてきた人々や、これからフランス各地へ旅立っていく人々の波に飲まれた。二世紀以上前に建てられた 駅舎の中はうすぼんやりとした明るさだった。夜になり、底冷えのする駅舎の中、コートの前ボタンをきっちりと留め、セシルはその人を探した。
 朴訥で、口は決して上手くないけれど、その目には確かに情熱の炎を宿している彼。この 一年、セシルをありえないほど満たされた気分にしたり、反対にとてもやりきれない気分に させてきた彼。
 しばらく駅舎の中を見回していると――見つけた。
 リオン駅の中でも特に目立つ大時計の下で、浅黒い肌をした、精悍な顔立ちのその青年は待っていた。すぐに声をかけてしまいたいのをセシルは堪え、まだ自分に気付いていない彼にそっと近づいた。
「ただいま、フリオニール」
 年若い恋人はセシルに気づくと、何度か瞬きを繰り返した後、あからさまに顔を曇らせ、唇を開いた。
「セシル……俺、すまないことを、」
 それ以上、セシルは彼に喋らせなかった。
困り顔を浮かべたフリオニールの唇にそっと人差しを遣れば、自分の唇でそこを塞いだ。 それから広い背中に腕を回し、人目もはばからず口付けを続ける。軽く唇同士を触れさせる やり方の次は、唇を割って自分の舌を捻じ込み、口腔をまさぐるやり方。腕の中で軽くフリオニールが身じろぎするのがわかった。
「ちょっと、待ってくれ、こんなところで――」
「街中、みんなしてるのに? 誰も気にしないよ、安心して」
 セシルはそう言うと、何度も会えなかった分のキスをして「ぼくの大事な人」とフリオニールを呼ぶ。駅舎が寒いだなんて、どうして思ったんだろう。今ではそんなこと、全く気にならなくなっていた。
 キスを繰り返すうち、セシルは、フリオニールがその手に何か提げているのに気づいた。ビニール袋から、何かのボトルの先が飛び出している。その視線に気が付いたのか、フリオニールは一度セシルから体を離すと、その包みを見せる。
「ああ、詫びになるかはわからないけど、後で一緒に飲めたらと思って……高いのは買えなかったけど」
 ワインのボトルを持って恥ずかしそうに笑うフリオニールは、二週間前までの憂鬱そうな彼というよりは、初めて会話を交わした日の彼のようで、セシルはつい嬉しくなり、微笑んで首を振った。
「いいのに。僕は君に会えればそれで、」
「良くない! だって今日は――」
 語気強く否定したフリオニールの琥珀色の目を覗き込み、セシルも「そうだね」と静かに頷く。
「覚えていたのか」
 尋ねられれば、もう一度恋人の頬に口づけを落とし、忘れると思ってた? と耳元で囁く。
セシルはフリオニールにそっと、手を差し出す。その冷たい手を、体温が高めな大きな手が強く握る。とっぷり日が暮れたリヨン駅周辺の街へと、二人はやっと歩き始めた。
 しばらく歩みを進めれば、何度も通ったフリオニールのアパルトマンが見えてくる。玄関に入り、二人で最上階までの長い階段を昇りながら、屋根裏部屋を目指した。
 セシルはあの屋根裏部屋が好きだった。色とりどりの屋根が見えるのも、晴れた日には晴れた日の空、曇りの日には曇天が見えるのも。ひっそりとしたその部屋が、まるで二人だけの秘密基地のように感じられるところも。
最上階にたどり着いても、フリオニールはすぐには彼の部屋のドアを開けなかった。
床に荷物を置けば、その行動にきょとんとした顔を浮かべるセシルを見つめ、再び痛切な声で「ごめん」と謝った。
「疑ったりして本当に悪かったし、最低だって思ってる。本当に、こんな俺でもいいのか?」
「ふふ、こんなところまで来て、それを言うの? 本当はね、君がしたいことは何でも叶えてあげたいって思ってた、傲慢だよね。だから、いつでも先回りするような僕の態度が君の負担になってるなんて思いもしなかったんだ」
 仲違いした晩、フリオニールに言われた事は少なからずショックだった。
――だから今は、そういう気分じゃないって言ってるだろ……なんで「それ」ばっかりなんだよ! 心配だなんだというけど、本当は俺の気持ちなんてどうでもいいんじゃないのか?
 けれど、もしかすると自分はフリオニールの不慣れさをカバーしようとしすぎていたのかもしれないと、この二週間で考えるようになった。道に悩みながらでも、ゆっくりと歩きたい人に近道を教えるのが得策だとは言い切れない。
「負担なんて、そんなの――」
「確かに疑われたのはね、悲しかったけど、でももっと話せばよかったと思うんだ。いろんなことを、僕たちは」
 そう、フリオニールが言葉の代わりに、その絵で、目で語りかけてくれるのと同じように。もっと伝えればよかったのだ。彼の体――精悍な顔や制作で鍛えられた力強い腕、少し猫背気味の背中、はねかえる癖のある銀色の髪、それらを好ましく思っていることを。そして、彼の体のどこかにあるその精神――彼の目と心、そしてその腕は、世の中の全ての美しい物のために捧げられている事を部屋や街のどこかで語りあうたび感じていた――を、好んでいたことも。
「もう手遅れになるところだったけど、間に合ってよかった。好きなんだ、君のことがとても」
 大切な人を失わずに済んだことへの安堵の涙が、セシルの目の端を伝う。一年前のようにフリオニールはセシルの温かい涙を拭ってくれた――今度は唇で。

 部屋に入り、買ってきたワインの栓を開け、ささやかに乾杯した後、二人はソファーの上でキスをしたり、お互い抱きついてじゃれあったり、服を脱がせ合うさ中ですら飽きることなく口づけを繰り返した。一年前と同じく、狭いソファーの上、恋人と時間を過ごすことができる嬉しさに、セシルはフリオニールに微笑みかけると、彼も優し気にその目を細めた。今夜は肩にかけられていた毛布はなく、お互いを隔てるものはもうない。
「ねえ、フリオニール、知ってる? 僕は君の体が好きだよ。自分の持っていないものを君は持ってて、それはとても素晴らしいと思ってる。だけど、表現したいものを持っていたり、何かを美しく感じることができる、ここも好きなんだ」
 これも一年前の再現だった。フリオニールの浅黒い胸の上へ、その少し早くなった鼓動を感じようとセシルは手を這わせ、そのままその手を下へと撫で下ろす。
「もちろん、ここも好きだけど」
 セシルは冗談めかして笑うと、フリオニールの性器にもそっと手を伸ばした。
「……おれも、好きだよ」
 何が? と聞き返せば、セシルがしたのと全く同じように彼はセシルの体に触れる。お互いに触れながら、もう片方の手で抱き合い、何度も角度を変えて口付けたり、たまに腰をぶつけ合ったり。その合間に帰ってきた答えに、セシルはいよいよどんな顔をすればいいのか分からなくなる。それは決して困惑からではなくって。
「体も、その魂だって、セシルの全部が美しいと思うから、ずっと傍にいたいし、触りたいんだ」
「そうしてよ、ねえ、全部触って。君が触りたいと思う所、美しいと思ってくれるところを」
 そうすれば少しでも彼の体と魂に近づく事が出来る気がする。体温を上げていく肌と、隣に座る恋人を感じたいあまりに、加速度的に昂ぶっていく己が心を感じながら。

 ベッドの上で何度もフリオニールはセシルの体――瞼、首筋、鎖骨、わきの下、指先、お腹、太もも、くるぶし、つま先――に口付けながら、きれいだ、すごいきれいだ、と何度も繰り返し。穏やかな顔をしていたセシルも「負けてるもんか、ルーブルにあるあの像にだって」とフリオニールが口走った時だけは不思議そうな顔をした。
 くすぐったい、ああ、でも、そんなふうに触られるといいな、嬉しい、フリオニール。
そんな声を聞いている、不思議と、いつものようにぎこちなくなってしまう事を恐れる気持ちはどこかへ行ってしまった。
「セシル、好きだ」
 そう言って短くフリオニールはセシルに口付けると、彼の足を持ち、膝を折りたたんで、それを胸へと押し付けたあと、後ろの窄まりに触れた。時間をかけてそこをほぐしていく間がじれったくなるほど、早く繋がりたかった。自分の下腹部に目を落とすと、明らかに興奮して、先走りがそれの先端を濡らしているのが分かった。
「……もう大丈夫だから、来てよ、フリオニール」
 余裕がなさそうなセシルの言葉を聞いて、フリオニールも笑った。後ろに宛てた指でそこを広げながら、自分の勃起しきった性器をセシルの中へと挿れていく。若干苦しそうに自分の下でうめいた声を聞き、痛くないかと尋ねれば、だいじょうぶだから、すきなふうに動いて、と返ってくる。
 興奮しながらも、浅く抜き差しを繰り返せば、ねえ、うれしいな、見て、つながってるよ、と、その場所を指差しながら、吐息まじりに、やっぱり笑ってるその人の声。ああ、そうだな、おれセシルのなかにでたりはいったりしてる、そんな事を言っている自分の息も上がっていることに気付く。
「……ねえ、こうやってする度、いっしょになって溶けてしまえたら、いいのに。あ、そこ、……っ、フリオニールっ、すきだよ」
「ああ……おれもそう思うよ、セシルもっと声、聞かせてくれよ。君のなかが熱くて、しんじられないくらい、すごくきもちがいい、だけど、よすぎてなんにもかんがえられなくて…セシルのこと、めちゃくちゃにしまったらどうしよう、」
 熱に浮かされながら、大きく腰を進めるフリオニールの顎に、熱い指先が宛てがわれる。それからセシルは彼の腕を掴んだ。
「だいじょうぶだよ、フリオニール、ぼくも同じだから、ねえ、おねがい、もう何も考えないで……、っ、あ、もう、だ、め」
 その瞬間、セシルのつま先が震えて、指先が丸まるのを見た。
 フリオニールが組み敷いた彼は、それまで見たことがないほど、蕩けて、幸せそうな表情を浮かべていた。
 抜けるぎりぎりまで腰を引いて、それから一気に最奥まで貫くのを何度か繰り返すうち、フリオニールの腕をぎゅっと掴んで、震えながらセシルは達した。そして奥で締め付けられたフリオニールもやがて限界を迎えて、セシルの中に自分の精液を流し込んだ。
 フリオニールは息を整えながら、額に汗をかいて横たわるセシルの前髪に触れ、それから彼を腕に抱いた。その勢いでずるっと性器は抜けてしまう。
「……ああ、もっと触っていたい」
「いいよ、ぼくもずっとこうしてたいな」

 二人で抱き合ったまま、転がって横向きに抱き合う形になりながら、お互いの髪や背中の感触を確かめるように撫であっている
「ねえ、さっき、言ってたルーブルの像って?」
「ああ、いいんだ、それは」
「気になるよ、だってもっと……君のこと、知りたいんだ。そうしたら、体も魂も、ずっと近くなるかもしれない、と思って……なんか、ちょっと夢見がちかな? でも君といるうちにそんなのも悪くない、って思うようになったんだ」
 それっておれが夢見がちって事なのか、セシル? 少しだけ不満を示そうとしたが、目の前の、ルーブルの眠れるヘルマプロディトスよりもしどけなく、満足げに横たわるその人を見たら、もうフリオニールには何も言えなかった。
 きっと近くなるさ、と言って、一層腕の中の人を抱く力を強くすると、願いを込めるように、そのつくりもののように美しい――けれど、動いて、息をして、たまに怒ったりもするれっきとした人間である――その人の額に口付けをした