2/2 J’en ai marre (もううんざり)

陶器のバスタブに寝そべりながら読むペーパーバックの残りは、あとわずかだ。レポート課題として出された作品に熱中しすぎることはないけれども、読み落としがないよう、セシルは出来るだけ集中して、内容をさらっていく。だって、そうしている間だけは、居間に置きざりにした携帯電話に掛かってくる、自分を苛立たせるばかりのメッセージを忘れられるから。
 先ほどまで強く西日が差し込んでいた浴室が段々と薄暗くなっていたことに、突然灯された明かりでセシルはようやく気がつく。
「……目を悪くするぞ」
 浴槽の傍らに置いた椅子についさっきまで読んでいた本を置き、声がした方へと振り向けば、ドアの側には――長身ゆえ、しばしば他者には威圧感を与えているらしいが、セシルにとっては優しく、物静かな――兄が腕を組み、立っていた。
「兄さん、帰っていたんだね。ずっと入っていてごめん。今、上がるから」
「直に夕食にするが……ところで、いつまでいるつもりなのだ」
「え? だから今、上がるって――」
 訝しげに首を傾げたセシルを見るセオドールの目元は険しかった。
「お前がここに来ると聞いた時、せいぜい週末を過ごして帰ると思っていたが、もう2週間だ。今夜とは言わん。だが、授業もあるのだろう? チケットを取り、早くパリへ帰れ。でなければ私は、なんのためにお前を大学にやっているのか分からなくなりそうだ」
――あまり失望させるな。
最後にそう告げれば、浅黒い肌をした兄は浴室の扉を閉め、去っていってしまった。
彼が決して攻撃的な意図をもって話したわけではないのを、セシルは知っていた。彼はただただ、兄の務めとして聞き分けのない弟を諭しただけなのだから。
二週間前にセオドールの家のドアを叩いた時から、いつかこんな事を言わせてしまうかもしれないのは分かっていた。でも、なるべくならば、寡黙で優しい兄にそんなことを言わせたくなかったのだ。
「……やっぱり堪えるなあ、こういうのって」
 自己嫌悪から、不意に唇から言葉が零れる。
暗い気分のまま、セシルは浴槽の中で仰向けになれば、目を瞑り、そのままぶくぶくと湯の中に頭を沈めていく。
湯の中に潜ると、自分の鼓動が煩いほどはっきりと聞こえる。ゆっくりとした規則的なテンポだ。そういえば、いつかこんな風に誰かの心臓の音を聞いた事があった――それは今、思い出したくないのに。うんざりする。
いよいよ息が苦しくなり、セシルは水面へと顔を出す。ぬれた髪を湯が伝っていく。
 いつか聞いたのは、二週間前に平手打ちした恋人の鼓動。恋人の名前はフリオニール。
その名前を思い浮かべる時、胸に広がっていくのが怒りや苦々しさだけだったなら、どんなに良かったんだろう。いまだに思い出してしまう。出会ったばかりの、ばかみたいに弾んでいた気持ち。押し寄せる苦い後悔にセシルはぎゅっと何かを掴みたくなったけれど、そこにあるのは、何の手ごたえもない水だけだった。

 セシルがフリオニールの胸に耳を当て、初めてその鼓動を聞いたのは、出会ってから1ヶ月目の夜だった。
今でも、彼と初めて言葉を交わした日のことを思い出せる。
「……なあ、もしよかったら――デッサンのモデルになってくれないか?」
 空いた時間をつぶすのに使っている学生街のカフェで唐突に声を掛けてきた、精悍な顔立ちをしたその青年の言葉が信じられなくて、思わずセシルは笑ってしまったんだった。
「何だい、それ。もしかしてナンパのつもり? ずいぶん婉曲的なんだね」
目の前に立つ彼の顔が、さっと赤くなっていく。
「いや、違うんだ、その……俺、工芸学校の学生なんだ。それで今、授業のヌードモデルを探していて。突然こんな事、頼まれるなんてイヤだよな。でも、クラスのみんなでカンパしてモデル料も出すし……駄目か?」
 彼は赤面しながらも、驚くほど真摯に語りかけてきた。兄や友人を除き、そんなふうに真っすぐにセシルに接してくれる人間には最近出会うことがなかったので新鮮だった。教師の資格を取るために通っている大学校(グランゼコール)の同級生たちは、良いライバルではあるが、友人と呼べるほど寛いだ間柄ではなかったし、たまに息抜きで訪れるこのようなカフェやバーで出会う男たちはこんなに初々しくはない。だからだろうか――その突拍子もない申し出に、セシルはつい頷いてしまった。
「いいよ、ぼくで役に立つのなら。でも教室で脱ぐのは嫌だな。そうだ、君の練習に付き合うっていうのはどう?」
 まさか、セシルが申し出を受けるとは予想していなかったようで、目の前の内気そうな銀髪の青年は、信じられないとでも言いたげな、驚いた顔をしている。
 セシルが彼を見かけたのは、実はこの日が初めてではなかった。ホットミルクと共に本を楽しんだり、レポートを書いたりする最中、ふと目線を感じると、そこに彼がいた事は何度もあった。目線を返そうとしたり、声をかけようとするとすぐに、彼は目を逸らしてしまう。そんな様子が微笑ましかったし、好ましいとすら思っていた。
「助かるよ! 俺の名前はフリオニール」
「僕はセシル。こちらこそよろしく、フリオニール」
 握手を交わしたフリオニールの手は大きくて、そして節が太く、何だか職人の手という感じがしたのを覚えている。
 誰かが糸を引いて引き合わせたみたいに、ごく自然に二人の関係は始まった。

 セシルは湯船から上がると、いつかフリオニールが描きたがっていた自分の体を鏡の前で無表情に見つめ、ため息を付く。タオルで体を拭いたり、髪を乾かしたりする間にも今は、思い出したくない、懐かしい記憶が押し寄せてくる。

 モデルを引き受けた数日後、フリオニールの部屋に来たはいいけれど、いざ「床に座って何かポーズを」なんて言われると、セシルはまるっきり困ってしまった。モデルをするのなんて初めてで、どういうポーズが望ましいのかもわからない。そして――モデルとしての経験がないからかもしれないが、フリオニールの目を意識すると、ますます人にぎこちなくなってしまうような気がした。
「戸惑わせてしまって、悪かった。こっちでポーズは付けるよ」
 そう言うが早く、フリオニールはてきぱきとセシルに指示を出し、絵を描くためだけにポーズを取らせる。それは、過去にセシルに関わった男達が取らせたがった、劣情を煽るためだけのポーズと全く違った。
筋肉の付き方や骨格、それぞれの関節がどう連動しているのか、深く理解するためのポーズをセシルは言われるがまま、何度も取った。自分の意図とは関係なく、ポーズを付けられるとのはマネキンになったみたいな気分で、少し面白い気分だった。
 モデルの真似事を始めて、一ヶ月が過ぎた晩、フリオニールがそれまで描いたデッサンを見せてくれた。ラジオを聴きながら、セシルは裸の上にブランケットだけ纏ってソファーに座り、床に並べられた数々のデッサンを眺めた。
どんなふうに描いているのかセシルが見たがっても、何故かフリオニールは見せてくれなかった。どうして急に絵を見せる気になったのはわからないが、他人が描いた自分を眺めるのは面白かった。
「少しは役に立てたかな。でも、ちょっと良く描きすぎてやしないかい。ふふ、僕はこんなに綺麗じゃないよ」
後ろ姿や横顔、色々な角度から描かれた自分の姿はなんだか別の人間みたいで、ついそんな言葉が出てしまった。
「セシルは、綺麗だよ」
キッチンから二つのマグカップ――ひとつはセシルのためのホットミルク、もう一つは多分コーヒーだろうか――を持って現れたフリオニールの顔は、若干緊張しているみたいだ。
持ってきたマグカップをソファーの横のテーブルに置いた彼は、さっきまで鉛筆を持っていたせいで指先が少し黒ずんだ手を、セシルの頬に添える。こんな日がいつか来るのだろうと思っていたセシルは、ごく柔らかい目をして、フリオニールを見た。
「そうかな――でも、フリオニールがそう言ってくれると、とても嬉しいよ」
 セシルの隣に座ったフリオニールが遠慮がちに口付けた後、肩に掛かっていた毛布に手を掛けたまま固まってしまった時、どう表現していいのか分からないけれど、とても愛おしく感じた。あまりに大事なものに触れようとする時の戸惑いや、それを台無しにしてしまうんじゃないかという恐れ。そんなものが、熱のこもった手のひら越しに伝わってくる。可愛そうな、年下の恋人の肩にセシルは手を伸ばす。
「大事に思ってくれてるんだね、大丈夫だよ。やめないで」
 その言葉にフリオニールは頷き、セシルの背中に腕が回される。震える声で彼は言った。
「どうしたらいいかわからないんだ、その、こういうことは初めてで――」
「落ち着いて。何にも気にしなくていいし、どんな風に触れてくれてもいいよ。君がポーズを付けてくれるのと同じだよ、任せて」
 赤く染まったフリオニールの耳元で「上着を脱いでくれる?」と尋ねれば、彼はその通りに浅黒い肌を晒した。裸の胸にセシルは耳を寄せ、少し早いテンポの心臓の音を聞きながら、その人の肌を撫でる。
「好きだよ、君が。それから、君の描いてくれた絵も」
 初々しい雰囲気のフリオニールに感化され、セシルも初めての気分でキスしたり、いつもポーズを付けてもらうのと逆の要領で、優しく彼の手を取り、体を重ねた。
こんなに素晴らしいことが、今までの人生に果たしてあっただろうか。劣情ではなく、お互いを愛しむ気持ちだけで寄り添うことの安らぎを初めて感じた。腕の中にも体の奥にも、フリオニールの真摯な思いを感じるうちに、自然と涙が溢れたことを今も覚えている。そしてその涙を、人然としてた無骨な指先でそっと拭われた事も、ずっと。

 それからはフリオニールとは、モデルと美術学生という関係というより、友達のように時間を過ごすことが多くなった。カフェに行ったり、フリオニールが見たい美術展や映画に付き合ったり、時々はセシルの部屋で何をするわけでもなく過ごした。
もちろん、以前のようにデッサンの練習に付きあうこともあったけれど、真剣に鉛筆を持って自分を描くフリオニールを見ているうち、なんだかその姿がたまらなく愛おしくなって、結果としてセシルが中断させてしまう事がしばしば続いた。結局「もうモデルはしなくてもいい」なんて言われる始末だった。
 それにつけても、最近のフリオニールはよく焦りを覗かせていた。主専攻である木彫の作品制作を進めたいようだったが、それがあまり上手く行っていないのか、いつも出入りするカフェにも姿を現さず、連絡も次第に途絶えがちになっていた。
 さすがに心配になり、知り合って半年が過ぎた頃に渡された合鍵を初めて使い、セシルがフリオニールの部屋を訪れると、案の定、彼は塞ぎ込んでいた。ソファーでうずくまる彼の頭を抱き、口付ければ「今、そういう気分じゃないんだ」という何とも刺々しい答えが返ってくる。どうしていいのかわからず、セシルも彼の隣に座り、うつむいた。
「……最近、全然しないよね、フリオニール。悩んでいるのは分かるけど、僕だって心配してるんだよ。それとも僕とするのはもう飽きちゃった?」
 セシルの言葉に顔を上げたフリオニールの表情は、見たことがない、暗くうつろなものだった。今思えばそれは彼がスランプにあったせいなのだろう。
「だから今は、そういう気分じゃないって言ってるだろ……なんで「それ」ばっかりなんだよ! 心配だなんだというけど、本当は俺の気持ちなんてどうでもいいんじゃないのか?」
 声を荒げる彼が、あの晩おずおずと自分の背を抱いた、同じ人間だとはとても思いたくなかった。別に彼でなければ、こんなこと言われても悔しくないんだろう。
好きだから、心配だから触れたいのに、その一番愛しい人に傷つけられた。そう実感した瞬間、セシルの手はフリオニールの頬を張っていた。
「どうでもよくなんかないよ、なんで僕が今まで君のそばにいたと思うの? 好きだから触れてたいと思う僕は、そんなにおかしい? ねえ、冷静になってよ、フリオニール」
 打たれたばかりの頬を自らの手でかばう、フリオニールの目は不満気だった。
「俺はセシルのこと、好きだよ。恋人だと思ってるし、出来れば大事にしたいと思ってる。でも、セシルはどうなんだ? この所、待ち合わせ場所でいつ会っても、お前は誰かと電話ばっかりしてる……なあ、俺はその何人の中のひとりなんだ?」
 もう一度、頬を張ってやればすっきりしたのだろうか。その代わりにある言葉が、口から飛び出していった。
「君なんかもう、恋人じゃない」
 言うが早く、セシルはコートを手に取り、振り向くことなくフリオニールの部屋を出て行った。その後、自分の部屋へどうやって帰ったか、全然覚えてない。ただただ、悔しくて涙が出た。
 どうしてありもしないことで疑われなくちゃならないんだろう? どうしてフリオニールは自分を信じてくれないんだろう。
待ってくれ、と自分を呼ぶ声がアパルトマンを出るまで聞こえていたけれど、あの時、立ち止まる気になんて到底なれなかった。誰にも告げた事はなかったけれど、半ば運命だと信じていた。そんな恋もあれでおしまい。ああ、うんざりする。

 それから2週間、毎日留守番電話に吹き込まれるメッセージを確認する度、最初は腹が立っていたけれど、今ではすっかり、あの真摯な青年が恋しくなってきている。
そんな甘っちょろい自分自身にもうんざりしながら、セシルは今日のメッセージを待っていたが、その日、深夜になってもフリオニールからの着信はなかった。

 暗く、冷たい廊下に立ち、セシルは昨日吹き込まれていた留守電メッセージをもう一度聞いてみる。
『セシル、何度も連絡してすまない、俺だ。2月4日、夜8時にリヨン駅で待ってるから……』
 その声は、あの喧嘩した晩のように荒っぽいものでも、やけくそになっているわけでもなかった。ただただ懐かしい、あの少し朴訥で、けれど優しい恋人の声だった。

「明日、窓口に行って帰りの切符を買うよ」
 就寝前、ダイニングテーブルでホットミルクを飲む兄にそう告げれば、おやすみ、と付け足して、セシルは客間へと下がっていく。兄は、小さくううむ、と頷いただけだったが、その一言には、隠せない安堵の色が滲んでいた。