決して謡われることのない者たちよ

 オンパーニュ老が死んだ。かつて皇国の神殿騎士として名を馳せ、あまたの戦場を駆けては数えきれぬほどの竜を屠った男が、たった二人ぽっちの弟子に見送られ、眠るようにその生涯の幕を閉じた。その表情は少しのいとま、うたたねに落ちているだけのようにも見える。
 
 第七霊災が起きた日より、シドゥルグと師であるオンパーニュ、そしてその弟弟子であるフレイ・ミストの住むクルザス西部高地の風景は様変わりした。最初は季節外れの雪を訝しむことはすれど、直に止むだろうとも思っていた。しかし、3日経っても2週間が過ぎても大雪は止まず、世界が日に日に凍てついていくような心地を覚えた。普段ならば雪が雨に変わり、河川に張った氷が溶け始める頃には、もうおそらくこの雪は止むことがないことを皆、悟ったように思う。
 頬をくすぐる春の風は、肌から熱という熱を奪い去ってしまう猛吹雪に変わった。
 天変地異を受け、ある者は気候変動の緩やかな土地を目指し、村を捨てて旅立った。また、別の者は「どうせ長く生きることはできまいよ」と長らく暮らした土地で終わりを迎えることを望んだ。

 その頃からだったろうか。老いてはいたが決して弟子に背中を取られることのなかったオンパーニュ師が床に伏せっている時間が増えたのは。
 少しずつ、頑健だったその身をすり減らしながら、しかし老いや病に飲み込まれてしまぬよう踏み止まりながら、純黒のオンパーニュは弟子たちに持てるかぎりの全てを伝えようとしていた。だのに、暗黒騎士を奮い立たせ、その大剣に強さを与えるという極意についてははぐらかすばかりで、確信めいたことは何も伝えてはくれなかった。
 その彼の命の灯がかき消える少し前に、己が身に残された最期の力を振り絞るようにシドゥルグとフレイにある言葉を言い残した。

――暗黒騎士は、負の感情を力に換える。だが、その感情は、ある心の支流にすぎない。源流となる心……それがあればこそ、暗黒騎士は強さを得る。血を捧げ、肉を削ぐこととなろうとも、決して引かぬ。
――その心こそ、暗黒騎士の極意。いつかそれを知るまで、護るべきものを、護り抜きなさい。

 神殿騎士として竜から皇国民を守り、称賛されてきたはずなのに、家名も名誉も捨て、誰にもその名を謳われることのない孤独な騎士として立ち続けてきた師。彼にとっての「護るべきもの」とは一体なんだったのだろうか。

 節くれ立ったオンパーニュの、今はもう温もりが消えつつある手を取りながら、ついぞそれについて聞くことができなかったことをシドゥルグは悔やんだ。聞いたところで何かともったいつける性分の師のことだ、きっと答えてくれることはなかっただろうが。

 師はよく、シドゥルグが怒りの力で剣を振るう姿を猛き炎のようだと評した。そして、気が優しすぎるきらいはあるが、いつも冷静で、怒りに飲み込まれることのないフレイのことは、薄氷に覆われる、静謐な湖だと。
 しかし、これはどうしたことだろう。いつも厚い雲に覆われ、雪が降り積もるばかりのクルザス西部高地の空が、珍しく青く澄み切って見える今朝ばかりは、シドゥルグは怒ることもなく押し黙り、そして、あの穏やかで従順なフレイが涙を流しながら、怒りの表情を浮かべているのだから。天変地異の前触れかもしれないぞ、となんて呟いても、誰も言葉を返しはしない。聞こえるのは時折り窓の外を吹き抜ける強い風の音ばかりだ。
 フレイは、少し前に三人が暮らす、ちっぽけな小屋の外へと何も言わず飛び出していった。
 師の命が穏やかに、しかし思っていたよりも早く尽きようとしていたことは、癒しの術を持たないシドゥルグの目にも明らかだった。そのことについてあえてフレイと話し合うことはなかったが、彼にとっても自明の事実ではなかったのか、それとも――。

 様子が気になったシドゥルグが、ややしばらく後に追いかけていけば、よく西武高地が見える小高い丘の上、固い雪と氷に覆われた地面にスコップを立て、穴をうがつフレイの姿がそこにあった。
 壮健だった頃、師匠と共にこの場所によく足を運び、時には稽古をすることもあった。クルザスが第七霊災に見舞われる前は風がそよぎ、野草が揺れるばかりののどかな景色な場所だった。シドゥルグがまだほんの子供で、師に拾われたばかりの頃は、その丘のずっと向こうにあった、神殿騎士団に焼かれたささやかな家と家族のことばかりを思い、怒りを滾らせていた。
 オンパーニュがいつか、冗談めかして言っていたろうか。
「いつか、自分が道半ばで倒れた時、あるいはその命を全うした時には……ここに葬ってほしい、か」
 シドゥルグの声に、それまでわき目も振らず穴を掘り続けていたフレイが降り返る。ろくすっぽ準備もしないで飛び出してきたせいだ、その指先も耳もかじかんで赤くなっている。
 今だ怒りの浮かぶ、泣きはらしたその目でこちらを見据える彼は、とつとつと言葉をつむぐ。
 同じ顔だ。まだ幼く、痩せっぽちだったフレイが師に連れてこられた日と。

――年は近いだろう。シドゥルグ、兄弟子のお前が色々面倒を見てやりなさい。
 シドゥルグが、ン、と手を差し出すと、雲霧街の友人を殺めた神殿騎士団への怒りに震えるその手をフレイがおずおと差し出す様子をまだ覚えている。

「……本当はずっと、分かっていました。幻術で痛みを和らげることができても、その天命、命の刻限は変えることはできないって。ましてや、幻術師でもない僕が、そんな大それたことできるわけがないんだ」
 うんざりしたように首を振るフレイ。彼がなぜ、たまらず小屋を飛び出したのかシドゥルグにも少し分かりかけてきた。結局のところ、意地っ張りで弱みを見せようとはしない、オンパーニュにしてやられた自分が悔しく、やるせないのだ。
「師匠が『楽になった、これなら明日には立ち上がって稽古ができるかもしれない』って冗談めかして話すたび、そんな奇跡をいつも信じそうになっていた自分にどうしようもなく腹が立つんです。そんなことがあればどんなにいいか、毎日願っていたのが馬鹿みたいだ。本当にあの、ししょうは……ッ」
 人のために幻術を手探りで覚えようとするほど、心根の優しい彼が師匠の死に責任を感じることなんて、目に見えていたのに。兄弟子としてもっと早く話をするべきだった。それでも時間はひっくり返らない。ならば、できることは。
 シドゥルグは、うなだれるフレイの手からスコップを半ば強引に奪えば、あっけに取られたみたいな彼の代わりに墓穴を掘り進める。
 こうすれば、彼が気持ちを整理する時間くらいは作ってやれるだろう。
「お前のヤワなその手で掘り進めたら何十年かかるか分かったもんじゃないからな。それに――まだ、師匠と話すことがあるんじゃないか。やり残したことも、後悔も、全部ぶつけてこいよ。その上で見送ってやろうじゃないか、あの人を」
「そう、ですね……少しの間、ここは任せます」
 驚いたように目を見張った後、フレイが小屋に向かって走っていくのをシドゥルグは少しだけ微笑んで眺めるのだった。

 子供の頃に聞いたきりのオル族の葬送の歌、そして雲霧街式の「次の生こそは恵まれたものになりますように」という願いの込められた簡素な祈りでもって師匠を見送った。
 フレイが整えてやったオンパーニュの亡骸は、彼の半身とも呼べる純黒の鎧を身に纏い、威厳のある、しかし慈しみと安らぎの感じられる表情で棺に眠っていた。
 近くの村で分けてもらった葬送の花・ニメーヤリリーを急ごしらえの墓標に供えるシドゥルグとフレイもまた、今まで身に着けることの許されなかった漆黒の鎧に身を包んでその場に立っていた。
 シドゥルグの鎧には、内なる怒りの炎を体現したような赤、そしてフレイの鎧には夜闇のような深い藍色があしらわれている。また、シドゥルグの装束には兜はなく、フレイにはその表情を覆い隠すバルビュートが与えられた。今、その意図を問いただすことはできないが、あの師匠のことだ――シドゥルグが憤怒の相を浮かべすぎて、怒りに飲まれないように、そして優しすぎるフレイがその顔に悲しみを湛えることのないように、装束を用意したのではないだろうか。
「どう……ですか? 可笑しくはないかな」
 バルビュードの向こうから金の瞳を覗かせながら、フレイが首を傾げ、少し据わり悪そうに尋ねる。
「師匠の見立てだぞ、似合ってるさ――これからは本当に、オレ達二人でどうにかやっていかねばならんのだな」
 師が身に纏う暗黒騎士の鎧を憧憬を持って見つめる二人に「一人前になったら着させてやる」とオンパーニュが告げてから、それほど時は経っていない。けれど、純黒のオンパーニュはもう側にいない。その事実はフレイとシドゥルグこそが、救世の英雄や神殿騎士の剣と盾からこぼれた弱きものを、その大剣だけで守っていかねばならないことを意味していた。
「――ねえ、シドゥルグ」
 己が背中に背負った、まがまがしき剣デスブリンガーを雪に覆われた大地に突き立て、シドゥルグと自分自身に言い聞かせるようにフレイははっきりとその覚悟を口にした。
「もし、誰かを守るために、僕たちのうち、どちらかがたおれることがあっても――何とかできたんじゃないか、と後悔するのはやめませんか。謡われることがなくても、報われなくてもそれが暗黒騎士なのだと、師匠から僕たちは教わったのだから」
「ああ、心得た。もし護るべきものを護るこの道程で俺が先に倒れたなら、その無念と怒りを乗せてお前も戦うんだ。――まあ、願わくば師匠の話していた『暗黒騎士の極意』とやらを会得してから死にたいものだがな」
 シドゥルグとフレイは小手を外し、お互いにその親指の先を軽く懐刀で傷つければ、指を合わせて血の誓願を立てる。この約束が守られるように、そして願わくばその日が来るのが遠い未来であるように、と望みながら。

 それから、シドゥルグとフレイは慣れ親しんだ住処を捨て、人々を庇護するはずのイシュガルド正教からは見向きもされない、棄民たちの暮らす雲霧街に出入りするようになった。
 時の神殿騎士団総長というのはずいぶん人間の出来た奴だとこのスラムにおいても話題だったが、末端の騎士達においては、アイメリク・ド・ボーレルのように高潔な理念を持ち合わせている様子はない。
 人々を傷つけ、これでもかというほど搾取し、嘲笑う醜い強者の姿にシドゥルグの身中には憎しみの炎がくすぶり、フレイの金の瞳からは温かみが薄れ、冷たい月のような鋭利さばかりが増していった。
 それでも、神殿騎士達からリエルを救えたことは、せめてもの救いだった。言葉少なな彼女を連れ、どこからともなく送られてくる騎士達から守った短い日々をシドゥルグは忘れない。
 あの堅物のフレイがいつになく冗談を口にしたり、それにつられ、表情もうつろだったリエルが少し微笑んだりする姿に妙に気が休まった。
「いつか君が自由に生きていけるその日のために」と、フレイがリエルに幻術を教える姿は今もずっと、目に焼き付いている。

 それからほどなく、フレイは死んだ。
 アウラ族とドラゴン族の違いすら分からない神殿騎士にとっては、権威の象徴たる盾を持たずに大剣のみで戦う暗黒騎士は単なる異端者にしか映らないのだろう。
 異端者審問の場でなまくら刀を渡されたフレイは降参することなく、その命を燃やしつくすように体から黒い炎を揺らめかせて戦い、そして負けた。
 打ち捨てられたはずのその亡骸は、ちょっとでも金になりそうなものならたちまち持ち去ってしまう追剥ぎたちが到着するよりも早く立ち消えてしまい、その顔を見ることも見送ってやることもできなかった。
 リエル、そしてシドゥルグを神殿騎士から護るため、何度倒れそうになっても暗黒の力と共に立ち続けたというフレイを思うと、とっくに傷もなくなっているはずの誓いを交わした指先が痛むのを感じた。
 せめてその躯を見る事ができたなら、彼が落ち延びているという愚かな期待を捨てる諦めもついたかもしれないが、それは叶わぬ望みだ。
 フレイの異端者審問の後から、リエルはまたふさぎ込むようになった。
 この先、暗黒騎士の極意にたどり着き、何も失うことのない力を得る事どころか、彼女をたった独りで守ることなどできるのだろうか。
 後悔するたび、指先から血が止まらず、そこが腐り落ちていくような心地がする。
 
 八方塞がりに思えたその時、ふと雲霧街の住人が口々に「見知らぬ大剣の騎士に助けられたものがいるらしい」「黒いもやと共に神殿騎士に殺されたはずの『あの人』が雲霧街に立っているのを見た」と噂しているのをシドゥルグ・オルは耳にする。

 フレイの言葉が脳裏に蘇る。
――謡われることがなくても、報われなくてもそれが暗黒騎士なのだと、師匠から僕たちは教わったのだから。
 大勢の兵士を相手に、漆黒の鎧を身に纏い、バルビュートで素顔を隠した男が大立ち回りをやってのけたという話を聞くやいなや、先の見えない猛吹雪の中、ホワイトブリムへとシドゥルグはその身を急がせる。リエルには「自分が帰るまで決して宿の部屋から出るな」と言い残して。例え、これが何かの間違いであってもいい。
 歴史書に名が残らなくても、異端者と呼ばれても、フレイが誰かの希望になっていることを伝えたかった。そしてもしどこかに隠れているだけなら、それともその肉体を失った後もさまよっているのなら、姿を見せて欲しかった。
 誓いを破り、後悔に沈む俺の頬を打ち、もう一度大剣と共に立ち上がれるよう、力を与えてくれ。
 一度は失ってしまったと信じた友人の幻影を思い、シドゥルグはその鱗に覆われた拳を強く握りしめる。