ザ・ポイント・オブ・ノーリターン

 幻影ファントムと呼ばれるその男は、少年の面影をわずかに残した、若く美しき主人――ここ数年でヴィンウェイを中心に勢力を急拡大した知的犯罪グループのトップであり、「濁り」のないことを他者のみならず自身にも厳しく求める完璧主義者――の扱いについて、少しばかりの過ちを犯した。
 下品なところのない、「正解」ばかりを選びとる衣服や食事の趣味、はるかに年上の男たちを明晰な頭脳と冷徹さでもって従わせるリーダーシップ。文句のつけようのない才覚を持ち合わせていても、子供は子供だと信じていた。
 母親を目の前で失って傷つき、己の手で父親を破滅へと追い込んだ、怒りを裡に抱えた子供は、必ず信頼できる「大人」を求める。男が培ってきた人身掌握術の知識無しでも解ける、簡単な方程式だ。
 大事なのは、警戒を解かせる少しの「真摯さ」と「意外性」、それから懐かしいものを思い出させるためのキー。どんな人間にも固く門扉を閉ざしているように見える、若きチェズレイ・ニコルズの心の隙間に入り込むための鍵はあっけないほどすぐ見つかった。
 それは瀟洒な邸宅のバルコニーから、真っ逆さまに転落死した母親が弾いていたピアノ曲。人間は案外ベタな展開に弱いものだ。かつて謀り、その目の前から手品のように消えて見せた相手だってそうだった。子どもには甘いパンケーキやスポーツ観戦、それから寝物語。ベタであればあるほど効く。
 だから、男は偶然の出会いを完璧に演出してみせ、寝物語の代わりに懐かしき旋律を求める青年にピアノを毎夜、聴かせた。
 それが今夜のように困った事態を引き起こすなんて思いもしなかったのだ。人間の感情なんて「正しいボタンを押せば正しい反応を引き出せる」ものだと信じていた、あの「コードネーム・ファントム」が、些細なものとはいえ、失態を犯すなんて。

――どうして俺は今、避妊具を着けたペニスを子供だと侮っていたチェズレイに撫でさすられ、あまつさえ口淫を甘んじて受けているんだ……?
 シャツなどは身に付けたまま、スラックスと下着を脱がされ、普段主が使う寝椅子の上に身を横たえさせられ、巧みではあるが初々しさを感じる、熱っぽい舌技で昂らされている。
 勃起などただの身体反応だ。感情が伴わなくとも、電気信号は脳を伝い、末端へと伝播する。敢えて抗ってみせる必要もない。
 ただファントムは知りたかった。自分がどこで「引き返せない地点」を超えてしまったのか。

 ヴィンウェイの短い夏が始まった今、男は自らの主に帯同し、北の拠点を訪れていた。その都市では二ヶ月に渡る白夜、そしてコンサートや舞台が連日のように開催される芸術祭が始まったばかりだ。いつまでも夕暮れのように太陽が沈まぬ街で、人々は夜ごと浮かれ、また睡眠不足に悩まされる。熱狂に紛れて事を為すにはもっておきの時期というわけだ。
 当初の狙い通り、チェズレイに仇なす人間を始末する手筈は順調に整いつつあり、後は機が熟すのを待つばかりだ。
 ただ、その時を緩慢に待つというのもつまらない。男は、退屈な待ち時間を「ボスの懐に深く入り込む」機会として、有効に活用することにした。
 やることは単純にチェズレイが幻影ファントムに求める『役割』を理解し、ただその通りに振る舞うだけだ。父親がたまの休暇に息子を連れ出すように食事へ連れて行ったり、時には母親のように、明るい夜になかなか寝付けない青年にピアノを聞かせる。ともすると、他人の目には年上の恋人のように映るかもしれない熱心さでもって。

『どちらが似合いますか?』
 街中でのちょっとした買い物の最中、よくチェズレイは男にそう問いかけたが、答えはいつも彼自身の目の中にあったし、答えるべきは言葉は決まっていた。時に『意外性のある答えが欲しい』とその目が告げている時には、わざと外してやる。この様に、チェズレイとの暮らしは『正解』のボタンを押し続けるだけの簡単なゲームだったのに。

 一夏の拠点だというのにご丁寧に用意されたグランドピアノ。今晩もいつものようにねだられ、それを弾いていたところ、不意にチェズレイが寝椅子から立ち上がり、ファントムの後ろに立った。
 これはどうしたことだろう。よもや、ひた隠しにしてきた裏切りの萌芽でも見出したのか。
 万が一を想定しつつも、男が笑顔を作り、ピアノを弾く手を止めて振り返れば、いつもは感情を必要以上に表すことをしないチェズレイが、緊張した面持ちを浮かべてた。
 作り物めいた白い肌はうっすらと血の気を帯びているし、印象的な紫の瞳は伏しめがちだが、昂りの色がある。その理由はもう少し探る必要があるか。
「どうしたんたい、ボス? まだ白夜に慣れなくて、眠れないのかい。それとも俺のピアノが下手だったかな」
「フフ……ご冗談を、あなたが奏でるのはいつだって澄んだ音色だ」
 声は平静を保っているが、わずかに上ずった響きだ。怒っているというよりは、むしろ追い詰められているようなトーン。だが、彼が「そんな感情」を表出させるようなきっかけをファントムは与えていないはず。
「悪かったよ。俺の演奏を貶したら、お前の母親だって貶すことになるよな……ところでチェズレイ、俺に何か用かな?」
 演奏用の椅子から立ち上がり、青年の目の前に立つ。そして、やましい所は何もないとアピールするため、しっかりと目を合わせ、チェズレイの顔を覗き込んだが、一向に彼が口を開く様子はなかった。
 そういえばエリントンの少年も時々、眠るのが怖い晩はこうやって何がしか言い難そうに男のところまでやって来た。そんな時はミルクでも沸かして、少し話をしてやればじきにベットに入ったが、彼はどうだろう。
「黙っていては何も分からないさ。ボスが胸襟を開くほどには、俺は信用してもらえていないということかな。それなら、あと俺にできるのは温めたミルクでも出すことくらい――」
「……子ども扱いはよして下さい。私が貴方の庇護を求める、途方にくれた少年に見えるのですか。だから――」
 チェズレイの瞳の紫色が、興奮によって僅かに深くなる。
 そうして彼は、男の顎へと手袋に覆われた、長く作り物めいた指を伸ばす。
「他の下衆どものように、私に下卑た視線を向けず、」
 言葉を紡ぎながら、一歩、また一歩と長髪の青年はファントムへと詰め寄る。
「劣情を抱くこともない、と」
 チェズレイの形の良い唇から溢れた意外な言葉には、落胆の色が滲んでいた。
「これは……驚いたな。チェズレイ、お前、」
 不可解ではあるが、ようやく合点がいった。
 哀れにもこの歳若きボスは、ファントムが見せたひたむきさゆえ、男に特別な感情を抱くに至ったというわけだ。
 良いニュースは、少なくとも今夜刺されることはないということ。男が杞憂するべきこともなく、プランを早めるような番狂わせは起こらない。
「私を軽蔑しますか? 立場ゆえに貴方が寄せる忠誠心を、不適切な形で解釈したわけですから」
 可哀想なチェズレイ。いつか目の前の男を心から信頼した瞬間に人生の終わりを迎えることになるのに、その命取りの相手に懸想するなんて。
「いいや、昔から恋なんてものは、時と場所を選べない。そう相場が決まっているんだ。その思いを俺が受け取るかは別として、誰もボスが抱いた思いを否定できないさ」
 己へと伸ばされたチェズレイの手を取り、自らの手を重ねる。強気な言葉とは裏腹に、手袋ごしの指先は軽く震えている。
 さて、スパイをやっていた時分にもこういうことはあったがどうするべきだろう。大抵ファントムに言い寄ってくるのは女であったし、遠からず皆『不幸な事故』で去っていった。
 まあ、感情のない自分がその心を明け渡すことなどできるはずもない。結局は終わりの日まで、正解のボタンを押し続けるだけだ。
「それでボスは俺に、何を望むんだい? 正直、お前の容姿ゆえにひどいことを言ったような奴らと同じことはしたくないが……俺の鈍感さゆえにボスを傷つけてしまったからな。叶えられるものなら、叶えてやりたいんだ」

 男に青年が望んだことは「許されるならば貴方に触れたい」という可愛らしいものだった。
 潔癖なところのあるチェズレイが、一体どのようなリクエストをするのかは少し興味があったが、まさか相手は着衣のまま、自分だけが下着やスラックスを脱がされ、ペニスを弄ばれるなんて思いもしなかった。
――かまわないさ、お前が触れたいようにしてみるといい。
 ファントムがその身体に触れる事を許した直後、おずおずと唇を合わせるだけの口づけをしたチェズレイは可愛らしかった。それから、男が返した深い口づけに戸惑いながらも、同じようにキスを返す姿も。上手だと褒めれば、少しばかり憤慨しつつも嬉しそうだった。
 油断した。
『貴方が達するところが見たい』というから、抱いてやるつもりでいたのに。
 口づけを交わしながら、手袋ごしにくすぐったくなるようなじれったい刺激を与えられ、硬度を持った性器を――同じものがついているというのに――生娘のように物珍しげに眺めたかと思えば、いつの間に手に入れていたのか、避妊具のパッケージの封を破り、ファントムの勃起したそこへとおもむろに装着していく。
「チェズレイ、俺にも羞恥心というものがあるのを理解してほしいな。そんな風にまじまじと見られると、さすがに変な気持ちになる」
「フフ、これは失礼……直に触るには、こうするしかないと思いまして」
 そう告げれば、先程まで着用していた手袋をチェズレイは脱ぎ去り、ラテックス素材のコンドームの上から、男の脈打つペニスに触れ、それから愛おしげに頬擦りをする。それから、上品な形のわりに存外に大きな口で先端を包みこめば、手をぴったりと幹に添わせつつ、口淫を始めた。
 避妊具越しとはいえ、キャンディでも舐めるようにおいしそうに、亀頭のくぼみや裏筋を丁寧に緩急つけて刺激されれば、それなりに「くる」ものがある。
「不快ではありませんか?」
 床に膝を付き、男の股ぐらに顔を寄せるチェズレイが顔を上げ、こちらを見上げる。
「……ああ、上出来だ。どこでそんなことを覚えたのかはきっと聞かないほうがいいんだろうな」
「別に……何ということはない話ですよ」
 青年の顔が僅かに曇る。
 息子によって手にかけられる以前、チェズレイの父はたびたび裏社会の集まりで息子を見せびらかしていた。集った悪党どもがチェズレイの賢さではなく、少年ゆえの未完成な美しさに惹かれることも十分にあるだろう。
「そんな余計な事より、もっと目の前の出来事に集中されるべきでは?」
 男の気が逸れたことを咎めるためか、今度はわざと淫靡な水音と共にファントムの性器をチェズレイは責め立てる。手や舌、口腔、時には喉奥までを使って深くペニスを咥え込んでいる姿を彼に心酔する組織の下っ端たちが目にしたら、驚きのあまり卒倒するだろう。しかし思うようにされるばかりというのも、いささか不本意だ。
「時々、ボスが弾くピアノはひどく情熱的だが、まさかこんな時にもその激情の一端を感じることになるなんてな――なあ、悪いがそろそろ苦しくなってきた。すまないが、少し動くよ」
「……!?」
 突然頭を掴まれ、押さえつけられながら、ずぽずぽと口腔を犯されたチェズレイは目を大きく見開き、苦し気に呻く。
「あんまりボスが可愛くて、つい抑えきれなくなってしまったんだ……ッ、とても具合がいいよ、チェズレイ」
 プラチナのように輝く髪を撫でてやれば、今この時にも喉奥に性器を突き入れられているというのに、目元に涙を浮かべながら健気な瞳でこちらを見つめてくる。
「そう、いい子だ、あぁ……もう、限界だ」
 狭く、暖かな場所に包まれたまま、男は身震いしながら避妊具の中に精子を吐き出した。
 ファントムが達し、ようやく解放されたチェズレイは一度は寝椅子に手を付いてせき込んだが、しばらくすると冷静さを装いつつ、立ち上がる。
「どうだい、特に見ても面白いものは無かっただろう?」
「いいえ、貴方の反応――特に普段は見られない一面が見られましたので。それに、欲望が爆ぜる瞬間の音楽も」
 男が体液の溜まったコンドームを外し、処理をする間、彼の主人はわずかに乱れた着衣を直しながら、よっぽどくつろいだ時間以外には見せない笑みを浮かべた。
「チェズレイ、隣に座ってくれないか? 少し話をしよう」
「ええ、勿論」
 隣に座ったチェズレイの髪を頭を撫で、その肩を抱き寄せると、彼は訝し気な顔をする。
「話をするのではなかったのですか、ファントム」
「少しばかりのピロートークは、ちょっとした話には含まれないかな。なあ、嬉しく思っているんだよ、ボス。寄せてくれたその気持ちも、お前が俺にしてくれたことも」
 だから、と前置きをし、そっと子供を寝かしつけるようなキスをチェズレイの頬に落とす。それから、わずかに身じろいだ彼の虚をつき、その長い膝下へと腕を回せば、青年を横抱きにして、ファントムは立ち上がる。
「こちらだけ善くされたままじゃ、大人の沽券に関わるのさ。観念して、俺に身を委ねてくれないか。もちろん……嫌でなければ、だが」
 抱かれたまま、主寝室へと連れていかれる主人は赤面しているのか、はたまた甘えているのか、男の胸にその顔をうずめている。
「――貴方になら、何をされても構わない」
 遅れて返ってきた答えは、どうやらその両方であることを示していた。

 他者に弱みを見せる事を厭うチェズレイが、なぜ抗わずに素肌を晒し、その体をベッドの上に横たえているのか。口付けをし、女のように髪を撫で、乳房とは呼べない平滑な胸を吸い、性感を高めてやる間にようやく男はその理由に辿り着く。彼は自らとよく似た不幸な母の人生、そしてその破滅を、得られなかった父性を求めることで塗り替えようとしているのだろう。それもとても直接的な方法で。己を幸せにすることはない男を愛するところまで、そっくり母親と同じ運命を辿っているとも知らずに。
 何度も男自身を示す記号としての名を青年が口走るたび、ファントムは口付けでその唇を塞いでやる。
 あまりにも哀れでいじましく、そして御しやすい。
「ここにいるよ、チェズレイ。何度も俺を呼んで、心細いのかい」
「いいえ、ただ私がそうしたいのです。いけませんか?」
「いや、それで気が済むのならいくらでも」
 両方の手でチェズレイの頬を包み、額にキスを落とす。それから、耳朶をそっと指でなぞり、耳元で「ボスは愛らしいね」と囁く。見るだけでも骨格の把握はできるが、実際に触れてみたほうがより形が理解できる。うってつけの機会だ。
 そうして、されるがままだったチェズレイが男の頭に手を伸ばし、じれったそうに抱き寄せ、息をつく。男はチェズレイの形のいい鼻先に軽くキスを落とし、「少し待ってくれ、準備をするから」と告げるが、どうにも抱き寄せた腕を離してくれるつもりは無いようだった。
「――どうか、このまま」
 チェズレイの言葉の意図は、全て聞かずとも明白だった。先ほどのようにゴムなど付けずに抱かれたいらしい。
「ダメだ、チェズレイ。何かしてほしいことがあるなら、自分の口で言うんだ」
 おもちゃのように性器を弄ばれ、まじまじと見つめられた意趣返しだ。子供でもできることさ、と揶揄えば、主は不満そうだ。
「……貴方をこのまま受け入れたいのです」
「本当にそれだけでいいのか?」
「――いつになく意地が悪い」
 観念するかのように、短くため息を吐いたチェズレイが男の耳だけに届くように、淫らな言葉を囁く。
「正解だ。聞き分けがいいね、ボス」
 そうしてファントムは、辱めのために上気したチェズレイの頬にもう一度口付けをした。

 今夜彼の主がどこまで事に及ぶつもりだったかは知らないが、すでに自分で後ろの準備はしてきたらしく、特に手間取ることなく挿入は出来た。男は正面からチェズレイの足を抱え、ゆっくりと抜き差しを繰り返す。声を出さないようにか、チェズレイは口元を押さえている。
「はは、本当に長い脚だな、ッ……ハ、綺麗だよ、とても」
「ッ……ファントム、……」
「その声も、髪も、顔も、俺が見てきた人間の中でも抜きん出た美しさだ。だから、隠すのはやめて、もっと見せてくれないか」
 唇を隠そうとするチェズレイの手を取り、そっと口付けをする。そうして、もうすぐこの世に二つとない美貌ではなくなる、今は快感のために歪められた彼の表情を眺める。紫の瞳がこちらを捉えた瞬間、ファントムは微笑み、急に抽送を速める。それに伴い、これまで抑えられていた青年の声が洩れ聞こえ始める。
「すまないね、こうでもしないとボスはその声を聞かせてくれないだろう? 自制的なのはいいが、それじゃベッドでは楽しめない。俺を信じて、今だけは全部忘れて――」
「――わかりました。貴方に全てを委ねます」
 戸惑いを見せながらも、組み敷かれたチェズレイは小さく頷く。催眠を施さずとも、正直ここまで従順に振舞ってくれるとは予想外だった。
――感情というのは、本当に非合理で、俺には理解ができない。
 性器が抜けるぎりぎりまで腰を引いてから、今度は深く突いたり、早いリズムで勢いを付けての抽送を繰り返す間、命じられた通り、ファントムの主は喘ぎを抑えることはしなかった。揺さぶられるがままに嬌声を上げ、与えられる一つ一つの快楽に体を震わせ、ただでさえ狭い腔内をさらにきつく、収縮させる。
「いい子だ、感じてくれているんだね」
 浅く息をしながら、言葉を紡ぐことも上手くできないのか、こくこくとチェズレイは頷く。
「でも、もう限界が近いんだろ? 我慢はしなくていい、俺もいくから」
「待って、ください、ファントム、ッ、わたしはあなたを――」
 お互いが達する直前、青年の口は確かにある言葉を紡ごうとしていたが、男は彼の唇に人差し指を立て、それを静止する。そうして、彼の主は自らの腹の上に、男は一層締め付けがきつくなった後孔の中へと白く濁った体液を解き放った。

 体を清めた後、今夜は隣で眠ってほしいという主の願いを受け、男はいまだ青年と同じベッドの上に横たわっていた。疲れたのか、はたまたその類の言葉を男が巧みに交わしてしまうことを悟ったのか、もはやチェズレイは前述の命令以外にはほとんど口を利かなかった。清潔なローブを身に着け、シーツの隙間にその身を滑り込ませてすぐ、男の主人は寝息を立て始めた。久方ぶりの深い眠りへと落ちていった、隣に横たわる彼の髪に何とはなしに触れてみる。
 その容貌を称えた言葉に嘘はなかった。しかし、その美しさも夏が終わり、秋が過ぎ、破滅の冬が来れば永遠に失われる。死の運命が動き始めたのも、また、男にとって不可解な感情を主が抱くに至ったきっかけも、幻影と呼ばれる男とチェズレイ・ニコルズが出会った瞬間なのだろう。もはや引き返すことのできる地点は、とっくに過ぎてしまっている。心のない「怪人」はただその時が来るまで、ささやかな主の願いを叶え、影のように付き従うだけ。そうして後はこの偽りの絆が無に還るのと同じように、幻の如く消える。
「――ボスが言おうとした言葉を聞く資格なんて、俺にはないんだよ。でも、今日はおやすみ」
 きっと長く子どもと暮らし過ぎたせいだ。旧い習慣をなぞるように、ファントムは眠れる青年の美しい額にもう一度だけ口付けた。