レット・イット・スノー

 雲霧街に程近い「忘れられた騎士亭」の扉を一度開き、杯を手にしたならば『お互いの素性を詮索しない。ましては喧嘩など吹っ掛けない』というのが、そこへ出入りする者に課された唯一のルールだった。貧民もお尋ね者も、四大名家に仕える騎士もならず者の集まりとして正規兵から白眼視される傭兵団員も例外なく、その店では客として扱われた。まれに酔い過ぎた人間や店へ出入りし始めて日の浅い者が問題を起こすこともあったが、竜詩戦争が終わりを迎えた今ではつまらない揉め事を起こす人間はほとんどいないという。
 なんと言っても、長年皇都イシュガルドの汚点として扱われてきた最下層であり、全ての犯罪行為が見て見ぬふりをされてきた、棄民たちの集まるこの雲霧街にやっと復興の兆しが見えはじめたのだ。皇都の上層はもちろん、下層においても雇用と共に活気や明日への期待といったものが少しずつ感じ取れるようになってきた。
 自棄酒に走る奴が減ってこっちは商売上がったりさ、と目の前で嘆く店主の顔がどこか嬉しそうであることを、酒場の常客である暗黒騎士シドゥルグ・オルは見逃さなかった。
 シドゥルグから今夜の宿代を受け取りながら、ジブリオンが目線だけを上階にある店の入り口へと向ける。
「さっき英雄様を見たって話してるやつがいたが――噂をすればなんとやらだぜ。おおかた蒼天街絡みかフォルタン家に用事でもあったんだろうな」
 つられて振り返れば、そこには肩に積もった雪を掃いながら、今まさに店内へと足を踏み入れようとするきょうだい弟子の姿があった。
 ややしばらくして向こうもこちらの存在に気づいたらしい。小さく手を上げ、短く微笑んだその人は、ぎしぎしと鳴る階段を降り、店主とシドゥルグの元へと近づいてくる。
「久しいな。アンタのことだから、最近も忙しく飛び回っていたんだろ」
 若干煮立ちすぎのホットワインを店主から受け取る冒険者はどこでも同じことを言われているのか、若干ばつが悪そうにあいまいに微笑む。
「まあ、この後も行くところがあるのかは知らんが、その一杯を飲む間くらいはゆっくり座っていけ。本当はアイツも会いたがっていたが……明朝くらいまでは雲霧街にいられるのか?」
 シドゥルグの問いに答える代わりに、優秀なきょうだい弟子兼エオルゼアの英雄、蒼天街復興の立役者は笑顔で頷き、シドゥルグのごつごつとした鱗に覆われた拳に己が拳をぶつけた。

 血を分けた家族や師匠、弟弟子を喪ってから向こう、他者と言葉を交わすことに煩わしさを覚えはすれど、楽しさなんて見出しようもないと思っていた。こちらの警戒心や諦念を乱暴にではなく、どこか軽やかに乗り越えてくるきょうだい弟子のおかげか、いつの間にやらシドゥルグは少し多弁になったと己を振り返る。
 今夜だって本当はこんなに長いこと、冒険者と語り合うつもりはなかった。顔を合わせない間に起きたあれこれをぽつりぽつりと話しあううち、東方みやげだという茶葉の入ったティーポットに三度は湯を注ぎ足すことになり、気がつけばジブリオンには「うちはいつから上品なティーハウスになっちまったのかね」なんて嫌味を言われるはめになってしまった。
――仕方ないだろう、酒を飲むとあのガキは決まって「シドゥルグ、お酒くさい……」と心底嫌そうな顔をするんだ。傍らの英雄が何杯飲もうと咎めることはしないのに。
口には出せない、シドゥルグの考えを見透かしたかのように「まるで二人は家族みたい」と今宵何杯目かの酒に口をつけるきょうだい弟子が向かいで呟くので、急に坐りが悪くなる。
「こっちの身にもなってみろ、口うるさい妹に常に見張られているようで落ち着かん。酒くらい好きに飲みたい日もあるさ」
 たまらずそうこぼした呟きにも、今夜の英雄は何やらニヤニヤしながら「そういう割にはほとんど酒を飲んでいるとこを見ない。たまには付き合ってくれてもいいのに」なんて珍しく食い下がってくる。
 もしかしなくとも少し、メンドくさい酔い方をしているのかもしれない。まともに付き合えばこちらの身、もとい羞恥心が持たない可能性が非常に高い。こういう時は話題を変えるに限る。シドゥルグはわざとらしく咳払いをする。
「――ところで最近の英雄って言うのは、楽器を弾くのもお手のものなんだな」
 長らく焼け野原だったイシュガルド下層に新たに生まれたのが居住区・蒼天街。リエルにせがまれ、何も知らずに完成を祝う復興記念式典を見に行ってみれば、よくよく見知った姿が演奏を行う楽団の中にあり、二人で思わず顔を見合わせてしまったものだ。
 教える人間の筋がよかったんだ、としみじみ語る目の前の人間に『演奏家って職業ジョブにもソウルクリスタルがあるのかな?』とまじめにリエルが訝しんでいた旨を伝えれば、それが妙にツボに入ったのか、長いこと愉快そうに腹を抱えて笑っていた。
 最後には「それじゃあこれからピアノマスターの腕前を特別に聞かせてあげよう、しかもタダでだ」なんて軽口まで飛び出す始末だ。今夜は余程愉快な気分らしい。
 いつのまにやら荷物から取り出した見慣れない手書きの楽譜を手に、目の前の英雄がややおぼつかない足取りで立ち上がったので、思わず手を掴んで引き止める。
「おい、さすがに酔いすぎじゃないのか。ピアノなんてものこんな場所にあるわけないだろう、蒼天街まで寒空の下、散歩する気か!? ――ジブリオン、水を……」
 うろたえるシドゥルグとは反対に『失われた騎士亭』の店主は心底楽しげな表情を浮かべている。そうして笑い声と共にカウンターから出張ってきたかと思えば、彼は部屋の隅の方にある「何か」の覆いを取り去る。薄く積もった埃をはらい、「どうぞ」と言わんばかりに会釈したジブリオンが示したのは一台のピアノだ。
「物好きがたまに様子を見てくれるから、そんなに音は狂っちゃいないはずだが蒼天街の上等なやつとは比べてくれるなよ。俺が店を引き継いでから、『これ』を弾きたがったのはお前さんで3人目だぜ」
 あるはずのないピアノが店の隅から魔法のように現れたことに思わずシドゥルグは絶句した。店主はもちろん、店で飲んでいた他の客も面白そうに英雄を囃立てるばかりで、こうなってしまっては光の戦士の思いつきを止めるものは誰もいない。
「……なあ、兄さん。心配なのは分かるがなぁ、たまには羽目を外させてやるのも仲間ってもんさ。それに酔っ払った英雄様の演奏なんて滅多に聴けるもんじゃねぇ、せいぜい楽しもうぜ」
 一応は申し出通りに水をテーブルへと運んできた店主の言葉にシドゥルグは、今はただ苦々しく頷くことしかできなかった。

 立派なものではないピアノの前に腰掛けた英雄は、指鳴らしでもするかのようにまずは跳ねるように軽快な雰囲気の曲を奏ではじめる。何故だかウサギの着ぐるみが飛び回り、卵を集めている姿が脳裏に浮かぶ、短く陽気なメロディはリエルあたりが聞いたらとても喜びそうだった。
 ピアノの音にまじって時折鼻歌まで聴こえてくる始末で、全くひどい上機嫌っぷりだ。
 続いてその人は、ここいらでは耳にしたことのない――きっとどこか異世界で聴きかじったのだろう、きらきらと陽の光を浴びる、清らかな水の流れを思わせる難しそうな曲を「ピアノマスター」だかの腕前をひけらかすように完璧に弾いてみせた後、一等最後に例の復興記念でも演奏した曲に取り掛かっていく。
 寒空の下、厳しい風雪に晒されながらかじかむ手で復興を進めた職人たちの不断の努力を讃えるため作られた、勇猛かつ明るく軽やかなその曲を耳にすれば、音楽に造詣の深くないシドゥルグの胸にもじんわりとした暖かな気持ちが広がっていく気がした。
 それは面白半分で囃し立てていた連中も同じだったらしく、演奏が終われば「忘れられた騎士亭」には鳴りやまぬ拍手が響いた。
 これで今日はおしまい、と名演奏家が口にすれば、いつの間にやら集まってきた聴衆は皆名残惜しそうにしていたが、じきに皆また自分たちの席へ戻るか、やがては店を辞していった。
 しかし、あんなにやる気を見せていたというのに、最初に手にしていた肝心の楽譜は最後までピアノの上に置かれたままで、最後まで演奏されることはなかった。大切なものらしく、忘れずにそれを手に戻ってきたきょうだい弟子に、シドゥルグは問うてみることにする。
「お前、そういえば結局その曲は弾かなかったんだな。別に何を演奏しようがかまわんが、気になってな」
 少しばかり言葉に迷うそぶりを見せながら、目の前のその人は頷き、店主が用意していた水を片手にゆっくりと話し始めた。

 酔いがまだ回っているせいなのか、その後行きつ戻りしながら語られた話によれば、先ほど披露した復興式典の曲を作ったのはフォルタン家の嫡男だという。そして英雄が手にしていたのは、彼がもともと手掛けていたが日の目を浴びることはなかったという曲の楽譜らしい。
 演奏会の楽曲提供と編曲の礼も兼ね、久々に邸宅を訪れたところ、手渡されたとのことだった。
「……自分で演奏できる日はきっと来ないだろうから、持っていてほしい、その方が曲も浮かばれるからって」
 冒険者も「作曲した本人がそんなことを言うなんて変な話だ」と思いながら、ひとまずは楽譜を受け取ったという。しかし、いざ譜面を持ってピアノの前に立った時、その意味を不意に理解する瞬間が訪れた。
「そして弾ける気がしなくなった……というわけか」
 答える代わりに、きょうだい弟子はうなずき、卓上に置いた楽譜の題名を指さす。そこにあったのは「ただ死者のみが見る」という文字。
「最初は蒼天街のために作られた曲と同じ旋律の、もっと広い意味での鎮魂歌だと思ってた」と目の前のその人はため息と共にこぼす。
 しかし、いざ弾いてみようと思い立った時、邸宅を離れる直前に見せた、アルトアレールの複雑そうな表情が頭によぎり、その曲がたった一人のために作られたことに気づいてしまった。
 また、なぜアルトアレール・ド・フォルタンが己にそれを託したのかも。
 シドゥルグは、光の戦士が辿ってきた戦いの全てを知っているわけではない。しかし、少しの間旅をしたあの『ミスト』がひどい言葉を口にした瞬間、その人が痛みに灼かれるような顔を浮かべたのをずっと覚えている。
――この眼だって髪だって、誰かがもう一度あいたかった「君」だ!
 むやみに詮索するのは性分ではないが、貴族には縁遠いはずのシドゥルグに素直に事情を聞かせるあたり、フォルタン家の嫡男にとっての忘れ難き一人とミストが示唆する人間はともすると同じなのかもしれない。
「――たった一人の死者を思って作られた曲か。それは確かに気軽に弾けるものではあるまいよ」
 夜もいよいよ深くなり、店の中にいるのはもはやシドゥルグ達を含めて残り数名のみとなった。喧騒の中ではかき消えてくれるはずの言葉もやけに大きく響く気がする。シドゥルグは声をぐっと抑え、言葉を続ける。
「だから、好きにすればいい。遺された者が、託された者がどうすべきかなんて、それは本人が決めることだ。だからそいつも『勝手に』楽譜を渡してきたんだ」
 悼むという行為は多くの場合、生者の領分にあること。あの旅を通じて、そして絶望的な強さで剣技を放ち、己を叩きのめしたオンパーニュの幻の前でそれを思い知った。また、恨もうが嘆こうが、必死に思いに蓋をしようが、全ての思いは時間と共に指の間からこぼれる砂のようにすり抜けていくことを。やがては自分自身だって。
「せいぜい悩んで、あがいて――お前の旅の全ては知らんが、きっとこれまでもそうやって進んできたんだろう?」
 あるいは全てを心に引き連れて険しい路を往くことだって、遺された側に出来る数少ない抵抗だ。
 目の前の人は、わずかに目を見張ったのち、複雑さの覗く、穏やかな笑みと共に頷いた。

 もう少しだけ店に居るという冒険者を残し、予定よりも大分遅くなってしまったがシドゥルグも宿へと戻ることにする。できるだけ足音を立てずに自分たちの部屋へと向かう中、かすかな音色が耳に届く。さっきまでどんなメロディも雄弁に奏でてみせたというのに。今聞こえてくるその楽音はおどろき戸惑っているような頼りない響きで、外から聞こえてくる強い風の音もあいまって、胸の底の底に仕舞われた、誰にも聞かせられないすすり泣きのようにも聞こえる。人に聞かせるためでなく、練習のために繰り返し演奏されるメロディは祈りの言葉にも似ていやしないだろうか。完成されたものではないその演奏は、すさんだ雲霧街の景色を覆い隠す雪のように静かで、今宵耳にしたどの曲よりも一等好ましく思えたのだった。

――翌朝、シドゥルグがまだうすぼんやりとした意識の中にいる中、夜通し飲んでいたらしいきょうだい弟子がリエルの顔を見に訪れ、アイツに頬ずりした瞬間、「おさけくさい……」と少しばかり嫌そうにされたというのは、また別の話。