Hola! Princesa!

 コンクリの階段なんて埃っぽいし、ケツはイタいし冷たいし、サイアクだ。この前まで、ちょっと動かすだけでガタガタ揺れてた中古車の助手席で文句を言ってたのは謝るからさ、ホント、早く帰ってきてくれよ、フリオニール。
 仕事着のデニムのオーバーオールのまま、駆けつけたというのに。帰らぬ家主を玄関前の外階段で待ちくたびれた少年は片手で頬杖をつきながら、塩素で色の抜けた自分の髪を手慰みに弄んでいる。不意に背後でドアが開き、22時のニュースをお伝えします、のTVキャスターの声が聞こえると共に薄暗かった階段に光がもれる。振り返って、マグカップを持った黒髪の少女を彼は見上げた。

「ティーダ、はい、これ。中で待ってたっていいのよ、まだ大分遅くなるかもしれないから」
「あ、大丈夫ッス。もう流石に帰ってくるだろ、あいつ。
 ……っていうか、マリア、ゴメンな、ずっとここ座ってて」

 自分にココアを渡してからゆるくかぶりをふって笑った待ち人の妹は、あまり彼には似ていないといつもティーダは思う。黒いびろうどみたいな浅黒い肌も大きく眼光鋭いあの目も、フリオのそれは野生動物みたいで。凛とした美人のマリアにもそんな雰囲気は少しあるけれど、もっと彼のは匂い立つみたいなそれだ。あいつら――しばしばティーダやその兄貴分であるフリオニールといった不良少年たちの縄張りを侵す、毛色の違う同じ不良たち――が呼ぶようにドブねずみなんて可愛いものであるもんか。

「風邪引かないでね。もし疲れたらまた出直して。ちゃんとフリオには言っておくから」
「ああ、ありがとッス」

 家の中へと戻っていくマリアにひらひらと手を振りながら、ティーダは落ち着かなかった。
 乗り心地はいいとこCマイナス、廃車寸前の「あれ」の助手席は自分の専用席だった。
 仕事や学校が「はねた」後、道行くグラマーな女の子達に声掛けてからかったり、たまにはそんなのを拾ったりしながら、ファストフードのドライブスルーを経由して、行く当てのない真夜中のドライブをしてた時だっていつも。
 それが今はどうした事か。これまでだって熱心に洗われているのを見た事はなかったけれど、持ち主に飽きられたみたいな真っ赤なセダンは、余計に土ぼこりで薄汚れて見える。

「お前さあ、オレが連れ出してやろうか? それでさ、マイアミの浜辺でピッカピカに磨いてやる、どう?
似た物同士仲良くやろうぜ、な」

 黒く油の染みた配管工事用のバイト着を着ていようと、この瞬間ぼろぼろの車に自分を重ねているみたいに、卑屈な気持ちをティーダが覚える事はほとんどなかった。
 きっかけは今でもありありと思い出せる。その日、あの行き着けの店のビリヤード部屋でフリオニールは自分たちの溜まり場にずうずうしくもやって来た、あのなまっちろく、高慢ちきな奴ら――自分たちとはまた別の移民の少年らをとっちめているはずだった。マリアにそれを聞き、急いでティーダがバーに駆けつけた時、そこにあるのはいつもの仲間たちの顔で、境界侵犯者達なんてどこにもいなかった。

――ホントに見物だったぞ。
――あいつらハツカネズミの群れみたいに仲良く尻尾巻いて逃げてったんだから。

 居合わせた者が口々にそう告げる中、肝心のフリオニールの姿は見えなくて。誰かに聞こう、と思った時、思い出したみたいに仲間の一人が口にした、そういえばまだ一匹残ってるんだった、という言葉にどっと皆が沸いた。
 ティーダがビリヤード部屋への扉に手を掛けようとした時、ドアはほんの少しだけ開いていた。そっとその隙間を覗くと、ビリヤード台の上、四方八方に的球が転がっていくのが見えた。
キューになったのは、確かにその場に置いていかれたハツカネズミだったみたいだ。台が揺れる音、続いて聞こえたポケットに玉が吸い込まれる音。白熱灯の回りを蛾が旋回する下に見えたのは、捕食するみたいに、汚れもよれも無いシャツとスラックスを着込んだ色素の薄い肌と髪をした青年を台に押し付けてキスをするフリオニール。

――どう見たって不良どころか、アップタウンボーイだろ、そいつ。どうしてお前も抵抗しないんだよ。意味分かんねえ、
スッゲー、もやもやする。

「とっとと放り出せよ、そんな奴」
 ドアを思いっきり蹴って部屋に踏み入ると、フリオニールが振り向く。思いっきり気が立ってるって感じの目をして見るものだから、ますます面白くない。
「行かせろよ、早く、そいつ、嫌がってんだろ」
 わざと自分に聞こえるよう、不満げに大きなため息を付いて彼はやっと、プラチナみたいな髪の美人を離してやる。
「だってさ、良かったな、行けよ、プリンセサ(お姫様)」
 立ち上がり、シャツが皺になってないか確かめる青年の肩をもう一度乱暴に掴み、確かにフリオニールはそう言った。
それはティーダとの夜中のドライブの途中、彼がわりといいと思った女の子たちに声を掛ける時に使う呼称だった。
「うん、……じゃあね」
 自分たちの言葉でお姫様と呼ばれた彼は一瞬顔をしかめたようだったけれど、それからまんざらでもなさそうに笑うと、まだ昂ぶっているみたいなフリオの頬にキスをし、肩を叩き返す。そしてするりと自分の横を抜け、部屋を出て行った。
ティーダにも小さく「助かったよ、すまない」なんて告げ、仲間で溢れるバースペースの方へと消えていった彼の去り際は鮮やかだった。

 それからだ。ティーダが遊びに誘おうとしても、中々フリオニールは捕まらなくなった。たまに顔を合わせたと思えば、その度どっかこっかに傷は作っているし、配管工のバイトや水泳のトレーニングは上手くいってるか、なんてつまらない事を訊く。彼の居ない間にハツカネズミみたいな越境者たちが縄張りを荒らす事はないけれど、この辺りの人間には不似合いな、上等な格好をした青年を見かけたとあちこちで聞くようになったのもおもしろくない。

――ああ、そうか。そういう事かよ。

 他の奴らはどうかは知らないけれど、ティーダには合点がいく話だった。
 大方プリンセサはあの辺――この間やってきた奴らのホームグラウンド――の連中にとっちゃ結構な重要人物だったんだろう。傷は多分、お目付け役か取り巻きにやられたモノ。
 その結論に辿り着き、思う事は一つだった。
 ばかなフリオ。
 なあ、学校とか、バイトとかそんな事なんかじゃなくて、また「あのオンボロの助手席に乗らないか」「海が見えるまでずっと走ってみるのも良いかもな、それで仕事も学校も放り出して二度と街に戻らないんだ」とか、もっと向こう見ずで青臭い事言ってくれよ、フリオ。
 日に日に、兄がいたらこんな気持ちなのかもしれないとすら感じていた彼が遠のいでいくみたいで、居ても立ってもいられず、ついに今夜、待ち伏せまでする羽目になってしまった。

「……何やってるんだろ、オレ」

 貰ったココアも冷め、一向に帰ってくる気配もしないし、諦めて帰ろうと思った時、それまで静かだった通りにエンジンの音と車のドアを閉める音が聞こえた。少し遅れて、遠くの常夜灯の下に見慣れた背格好の男が現れたのを見、安堵したのもつかの間、続けて現れた青いぴっかぴかのクルマ、そしてその運転席横のスモークグラスが降りて、そこから伸ばされた白い手を見るなり、ティーダは真っ逆さまに落とされたみたいな、最低の気分になる。手を降ったそいつが見えなくなるまでずっと、ばかみたいにフリオニールがそこに突っ立っていた事も加えて。

「なあ、フリオ……それ、まあ、いいや、お帰り」
 飼い主に置いてかれた犬みたいにしょんぼりしてるのか、ゆっくり歩いてきた兄貴分の顔を見て、思わず閉口しかけた。口の端が切れて、少し痣になってる。その足取りだって別に感慨に浸ってたわけじゃなく、軽く引きずってるみたいに不自然だっただけで。
「ああ、ただいま。それで何の用だ?」
「……車、貸してくれよ」
「それだけか? 明日にしてくれ」
 少なからずむっとした様なフリオニールが、横をすり抜けていこうとするのをティーダは逃さなかった。立ち上がり、玄関のドアの前に立つとそれを阻む。
「ちげーよ! 別にそんなのはもうどうでも良くって、……またあそこ行ってたんだろ」
 あいつの所――ティーダやフリオニールがドブねずみ扱いされ、つまみ出されるくらいで済むならいい場所に。そしたら、ちっとも面白い事なんて訊いてないのに。おまけに威嚇するくらいのつもりで睨み付けてやってるのに、目の前の彼は笑った。
「それでアレ、何に使うんだ?
 こないだのあの子か? まあ、明日また鍵取りに来いよ、な、ティーダ」
 ごまかすみたいにフリオニールが、いつの話か思い出せないほど昔のドライブの話題を出してから、ザッツオール、おしまい、そう無理やり締めくくるみたいに自分の頭に手を遣ったのが、ティーダにはいよいよ我慢ならなかった。

「もう会うのやめろよ」

 誰となんて言わずもがなだ。少し動いて、彼が通れるように道を空けてやり、すれ違いざまにそう告げてもなお、彼はそれについて何も言わず、ただ口元を歪めていた。
「そのうち足だけじゃ済まなくなるんだからな、バカ」
「……じゃあな、おやすみ」

 そうティーダに告げ、玄関のドアをくぐったフリオニールは、多分牙を抜かれた野生動物でもないし、誰かの飼い犬に成り果てたわけでもないんだろう。おおよそ不道徳に遊ぶ時も仕事する時も、誰かをとっちめる時すら、一秒たりとも手を抜かず、彼がすべてに全力で挑むのをティーダは知っているし、多分、それはティーダ自身だってそうだ。だからこそ、あんなプリンセサに入れ込むばかだってやるんだろう。
 それでも、どうしようもなく、わざわざ数千マイル以上離れた海を目指して夜通し走ろうか、と取りたての免許を持ってはしゃいでいた、いつかのフリオに今、オレ、会いたいよ。

 コンクリの階段を下って、彼の部屋に明かりが灯るのを見届ける。いつものように拾われ、ティーダの手に収まった小石が行き着くのは、手の主が見上げる家の2階の窓ガラスではなく、デニムのオーバーオールのポケットの中で、それっきり彼が帰宅し、着替えてしまうまで忘れられた。