あずけた心の在りかは

「なあ、あの晩のこと、まだお前は覚えているのか」
 長雨の続く季節のある夜、城下町に位置する親友の部屋でセシル・ハーヴィは、その言葉を聞き、驚きを隠せなかった。
 まだ、幼さの残る少年だった頃、ただ自分の抱えていたその気持ちを、相手の気持ちなど考えずにぶつけたことがある。そしてひと時、肌を合わせ、体を重ね、淫靡な熱を高めあい、それきり二人ともその出来事について口を開くことはなかったのに。
 なぜ、五年もの時が過ぎた今、思い人であったカイン・ハイウインドがそれを口にしたのか。
 暗黒騎士となり、今や飛空艇団の隊長としてバロン国を背負って立つ立場となったセシルは、今唐突に自分へと突きつけられた問いにどう答えたものか、と逡巡する。

 天候の安定しない今時期は、飛空艇を駆っての任務も少なく、このところのセシルと言えば、普段後回しになってしまいがちな書類仕事などを片付けるなどして過ごしていた。執務室にこもり切りのセシルを見かねてか、親友であるカインはこの所、よく訓練の合間に赤い翼の詰め所へと顔を出してくれていた。
 お互い多忙な立場だ。こんな時期でもなければ、他愛もない話をしたり、一日の訓練が終わった後、城下町を軽く歩き、酒を酌み交わしたりなどできない。
 空はいつも暗く、低く垂れこめた雲からは絶え間なく冷たい雨の降る厭な季節を初めてセシルは好ましく感じた。
 そうして今晩も雨も降りやまぬ中、友人と過ごす久方ぶりの時間が楽しく、別れがたかったため、流れのままにカインの部屋へと来てしまった。
 共に時間を過ごせるなら話題は何でもよかった。貴族連中のスキャンダルや民衆の間で話題となっている旅回り一座の話。自分たちの受け持つ団での訓練や、隊員達の士気を高める方法について。
 遠征任務のない珍しい週末だったこともあり、二人で小さなダイニングテーブルを囲み、城下町で買った安酒をあおりながら、ゆっくりと言葉を交わしていた。
 もうじき真夜中になる頃合いだろうか。空は厚い雲に覆われ、部屋の窓からは双月も星も何も見えず、時間の感覚はゆるく狂っていく。本人を含め、誰にも話すつもりのなかった幼い恋をセシルが忘れたことはなかった。
 出会った日から孤児だったセシルを気にかけ、また身分や家柄などを気にせず接してくれたカインは、養い親である陛下とは異なる意味で大きい存在だ。最初はただ友人として好ましく感じているのだと思っていた。けれど長じた後「親友に口づけされたい」「その手で触れられたい」と思う者はいないと知った。
 兵学校にいた頃門の前で誰かを待っていた女の子たちと話してみたことがあったけれど、皆口々に、慕わしく感じるからその人に触れてみたいのだ、と言っていた。
 カインが退寮する前日まで、あの気持ちは一人で胸の奥に秘めておくつもりだった。
 しかし、指や唇が触れる度、そして奥まった場所へと性器を受け入れるほどに浅ましい気持ちは膨らんでいった。いくら体を重ねても、今後、彼と恋に落ちることなどありえないというのに。
 だから、宝物をわざと水の底に沈めるように、あれきりセシルはその思いに鍵をかけ、必死に目を逸らし、何でもないように暮らしてきた。
 それなのに。
「覚えているよ。忘れられるはずなんて、ない」
 身を振り絞るようにして、セシルが言えたのはただそれだけだった。
 親友の澄んだ青い瞳で見つめられていると、確かに葬ったはずの気持ちが蘇ってきそうな心地になる。
 グラスを片手にセシルは席を立てば、友人に背を向け、水彩画のように雨でぼやけた、バロンの街並みを窓から眺めた。
 「それで、確かめてどうするつもりだったの」
 なるべく何でもない風を装って尋ねてみる。その一言に期待や思慕が滲まないように。
 セシルの言葉に少しばかりカインは時間をかけ、言葉を返した。
「正直なところ、どうしたいのか俺にもわからん。だがこのところのお前は、少し生き急いでいるように見えた――重たい秘密を預けられた身としては、ゆめゆめ先に死なれちゃ困るんだ。だから、文句の一つでも言わせてほしかったのかもな」
 カイン、少し酔っているんじゃないの、なんて冗談めかして返事したら「誰が酔ってるだって?」と言いながら、話し相手の親友はセシルの横に立ち、同じように窓の外を眺め始める。
 いつだって彼は優しすぎる。自分よりもずっと。このところ遠征続きだったセシルを気遣い、話をする時間を設けてくれるし、任務のことやそれ以外のことでセシルが話せないことを無理に詮索もしない。ただ、こうやって横に立ち、取り立てて何をするわけでもなく話を聞き、どんなに立場が変わろうと「ただのセシル」として扱ってくれる。
 それに、自分が身勝手な思いをぶつけてしまった夜だって、彼はそれを拒むことなく、ただ受け入れてくれた。何もかもを受け入れてくれるカインのそばにいると、その優しさに付け込んでいるような自分が時々どうしようもなく厭になる。特に冷たい雨の降る今の時期には。
「君はいつも僕のことを甘やかしてくれるよね――それが時々、ひどく残酷に思える時があるよ」
 すぐ隣でふっ、とその人が微笑む気配がした。
「奇遇だな。お前はすぐ俺を優しいだのなんだのとよく言うが、ちっとも優しくなんかないさ。こうやって昔の話を蒸し返して、お前を苦しめ、楽しんでるのさ」
「ほら、そうやってすぐ悪者ぶって。全くひどい冗談だよ――でも案外、ちょうどいいのかもね、僕たち」
 何がちょうどいいって?こちらを向き、そう尋ねた友人が軽くよろけたので、セシルは腕を差し出し、その体を支えてやる。窓の外から人が見れば、抱き合っているようにも見えるかもしれない。
 ほら、やっぱり酔ってるんじゃないか、と耳元で囁けば、わざとだと言ったら?とニヤリとした響きの声が返ってくるので、思わず閉口した。
 大人になった僕たちは少し狡猾になった、とセシルは思う。
 友人であることを脇に置き、恋心や過去の出来事を言い訳にただひと時、長い雨の時期に感じる鬱屈を、肌を合わせることで発散しようとしている。窒息しそうなほどの優しさを与えられ、それに半ば溺れそうになりながらも彼の側を離れられない自分と、自分は優しくないと嘯きながら、ひどく甘やかしてくれる彼と。それをちょうどいいと言わずに、どんな言葉で表せばいいのだろう?

 少年の頃のような拙さはもうなく、どうすればお互いが昇りつめられるかを直感的に感じながら、狭い寝台の上でゆるく抱き合いながら唇を重ねる。
 セシルはカインの頬を両手で包み込み、わざと水音を立てる様にしながら、緩急をつけて唇を啄む。相手の舌を吸い、絡ませ、一瞬一瞬を味わい尽くすようにみたいに。
 自分の動きに呼応するように相手が反応を返してくれると、それだけで胸がいっぱいになる気がした。
 キスの合間、手のひらでその形や質感を確かめるよう、頬骨やなめらかな髪、それから首から肩に続くラインなど、あらゆる場所に触れていく。
 カインも軽く目配せした後、同じようにセシルの波打った髪やその首や鎖骨に触れてくる。まとわりつくような湿気のせいで、触れる手や絡ませた足はしっとりとして冷たく、しかし内側にははっきりとした、欲望による熱がこもっているのも感じている。
 そのうち、カインの手がセシルの背中へと回る。セシルのそこには特殊な呪具で描かれた、暗黒騎士の刻印がある。肩甲骨のあたりにほんの小さな文様が描かれているだけで、傍目には大きく変わっては見えないが、生命力や強い感情を暗黒の波動へと換えるための術式が込められている。
 敬愛してやまない陛下への忠誠の証に親友の手が触れる度、甘く、背徳的な気持ちが湧き上がってくる。
「王の懐刀たるお前が、こんな風に男の腕の中で甘えていると知ったら、きっと驚く人間も多いんじゃないか?」
 セシルの表情の変化に目敏く気が付いたのか、それとも単なる偶然なのか、友人殿はこんなことを言ってのける。
「そっくりそのまま返すよ。昔から君を慕う女の子は多かったけど、そんな子たちがこのことを知ったらがっかりするよ、多分」
 お互いに軽口を言い合えば、なんだかおかしくなってきてしまい、お互い目を見合わせて、額を合わせ、小さく微笑んだ。
 一体、何をやっているのか。
 こうやって肌を合わせてもなお、まだ親友でいられると信じている自分たちは、少しどこかのネジが外れてしまっているのかも。だからこそ、罪悪感を覚えずに済んでいるし、間違っても「友人」以外になることを期待しなくていい。
 いくら思いを遂げても、こうやって再び体を重ねたとしても、それ以上は絶対に踏み込めない。
 それこそセシルがカインに感じる、ある種の甘い残酷さの正体なのかもしれない。
 いっそ誰よりも憎んでくれたなら。そんな馬鹿げた考えと共にセシルはその手をカインの首許へと伸ばすが、彼を傷つけることなど最初からできるはずもなかった。せいぜい、その白い頸へとひと時の所有の証を残し、それきり愚かな思いから目を逸らした。

 後ろから、逃げられないようしっかりと覆いかぶさられ体を押さえつけられた上、片手では前を弄ばれ、後孔にもずっぽりと親友のペニスを咥えこまされたセシルは泣きそうだった。厭なのではなくって、絶え間なく与えられる過ぎた快楽のせいで。身じろぎし、つかの間それから逃れようとしても腰を掴まれ、またすぐに根本までしっかりと捻じ込まれる。
 子供のようにいやいやと頭を振るセシルをなだめようとしてか、カインは背中や髪に口付けを落とすが、感覚が鋭敏になった体にはそれすらも十分すぎるほどの刺激だった。キスが落とされる度、セシルはぴくりとその体を震わせる。何かが溢れそうになる感覚とぞくそくとした快感に思考まで犯される心地がして、思わずぎゅっと目を瞑るがそんな小さなセシルの抵抗すらカインは許してくれない。
 耳を舌でなぞったり、軽く歯を立てたりしては、今この時へとセシルを引き戻す。もういやだよ、おかしくなっちゃう、ゆるして。そんな風に懇願しても「本当にやめたいのか?」と意地悪な囁きが返ってくるだけだった。
 その言葉の通り、ぷっくりと励起した乳首を弄ばれたり、先ほどの意趣返しのように、首を吸って痕を残されたりと甘い責め苦が与えられるたび、セシルの体は熱を孕んでいったし、性器を咥えこんだそこも次に与えられる刺激を無意識に期待して、きゅうきゅうと締め付けをきつくするばかりだった。
「そろそろ辛くなってきたかのか?それならいかせてやらないとな、」
 カインのその言葉と共に、セシルの性器を上下に弄ぶ手の勢いが強くなる。手で輪を作るようにして、親友はセシルの敏感になった先端から根本までを一定のリズムを付けて撫でさすっていく。これまでのじれったい気持ちよさを与える動きとは異なり、明らかに達させようという意図を感じるものだ。
 じゅぷじゅぷと水音を立てて前を扱かれる度、自分の体液がカインの手を汚していくことが恥ずかしくて、セシルはきゅっと眉根を寄せ、顔を歪める。
 また、こうされる間にも抽送は止まない。内側からも媚肉を擦られ、わざとセシルが善く感じる場所ばかりを執拗に責め上げられれば、切なく声を洩らすことしかできない。
「強情張らずにさっさといけよ、今更何を恥ずかしがることがある?ほら、もう辛いんだろう?今楽にしてやる」
 性器に触れるのとは別の手で乳首を強く摘ままれ、その刺激がきっかけとなり、がくがくとセシルの体が震えだす。ずっと慕っていた、たった一人の想い人にこんな姿など見せたくはなかったのに。他ならぬその人の手により、目の前で恥辱にまみれた姿を晒しながら、セシルは達した。
 堰を切ったように、それまで堪えていた性感が一気に押し寄せてくる。声を震わせ、ほとんど気が遠くなりそうな快感をしばし味わう。その最中、カインが不意に後ろのほうへと体を倒すので、つながったままのセシルもついバランスを崩しそうになる。それから囁かれた言葉でその動きの意図を察した。
「ひどいよ、まだいってるのに、っ」
「まさか一人だけで楽になれると思ったのか?わが親友殿は思った以上に薄情だな。それに今度はお前が動いてくれてもいいだろう?」
 性器を咥えこんだまま、体の向きをぐるりと前へ向ける様に耳元で請われ、その目尻に快感ゆえの涙をにじませながらセシルは言う通りにする。さんざん主導権を奪われ、良いようにされた後だ。お望み通り攻守交替といきたいところだったが、まだ達した余韻でひくひくと内側は疼き、その体も震えたままだ。寝そべったカインの上にまたがり、後ろ手を付いて腰を動かそうにも、達したばかりの体に新しい刺激を感じるやいなや、その快楽ゆえに動きが止まってしまう。
「なんだ、もう限界か?それなら勝手に動かせてもらうぞ」
 負けず嫌いなセシルの性格を知ってか、わざと煽るようなことを言うカインの声色にもだんだんと焦燥感が滲んできている。
「そんなこと言うわりに、君だってずいぶん苦しそう。いいよ、僕の体ならいくらでも使ってよ、」
 深く息を吸い、呼吸を整えれば、熱のやり場を探すように抽送を続けるカインに合わせ、セシルは腰をゆっくりと動かし始める。
 腰いっぱいに再び甘い刺激が広がり、堪え切れず、短く声を上げる。そうして何度かセシルが腰を打ちつけた後、いよいよ親友の美しい顔が、苦悶のためではなく、溜め込んでいた熱をようやく吐き出せる快感に歪む。
 慣らされ、何度も穿たれるうち、すっかり受け入れた肉の形に変わってしまったと感じるほど、ぴったりと性器を包み込んだセシルのそこに、カインは熱い迸りを注ぎ込んだ。さほど間を置かず、セシルも内側への刺激だけでぴくぴくと体を震わせ、二度目の限界を迎えた。そして、ふわふわとした気持ちよさを感じたまま、体を清めることすら考えず、そのまま目の前に横たわる人の隣に半ば倒れるようにしてその身を横たえた。
 二人とも、寝台から立ち上がることはおろか、少しも体を動かすことなく、ただ力尽きたように寝転んでいる。聞こえるのは、荒くなった息を整えようとする相手の呼吸と今なお降り続ける雨音だけだ。カインと離れて過ごす間も、兵学校を出た後も、セシルは雨の日のたび、あの晩のことを思いだした。そして、心を預けた相手はあの日のことを覚えているのだろうか、とも思っていた。
「覚えていてくれて、ありがとう」
 たった一晩だけでも十分だったのに。その気持ちを無碍にするわけでもなく、ただ受け止め、こうしてなだめるように抱いてくれた友人に告げたのは、嘘いつわりのない本心だった。
「……礼を言われるようなことなんて、何もないさ。ただ、今時期は勝手にあずけられた心とやらが、重たくてたまらないだけだよ。お前は俺を憎んだっていいんだ」
 カインの言葉を聞き、セシルは小さく微笑む。どうしてかわからないが、僕たちはひどく似ている。幼い頃からずっと離れることなく過ごしてきて、今更失うことなどありえないと思っているのに。その関係に「親友」以外の名を与える事もせず、お互いに憎まれたほうがいっそましだと思いながらそばにいる。全く不器用にも程がある。
「どんなことがあっても、君を憎むことなんてない。絶対に」
 いい加減疲れたのだろうか、セシルが返した言葉を聞けば、それきりカインは口を開かなかった。
 もうじき長雨の季節も終わり、夏が来る。目が覚めれば、ほんのひと時雨宿りをするみたいな、安らいだこの時間も終わりだ。また、こんなことなど起こらなかったという素知らぬ顔をして、これまでと同じ日々を続けていく。去りし日、唯一差し出せるものとして手渡した「心臓ほんとう」の在りかを確かめるよう、セシルは気だるげに隣で寝そべる友人の胸もとへと寄り添い、徐々に落ち着いたものになっていくその鼓動を聞きながら、ひどく優しいまどろみへと落ちていった。