おかえり

自分の指先からまばゆい光の粉がこぼれはじめて、からだをかたちづくっているもの――血、肉、骨、そしてその間を駆け巡っていた熱情やエーテル、そしていびつな、時折作られ、与えられた模造品ではないかと疑わずにはいられなかったそれではなく、この世界で経験し、はっきりと自分のものだと言える記憶が今、光を放ちながら解けていく事に心地良さを覚えながら、彼はそっと目を細める。
 あたりに散っては乱反射し、きらめく。その物質が自分のからだから拡散している事には気が付いた時、おそらく今の自分を形作っているものは全て消えてしまうのだろう、と彼は悟った。それでも不思議と怖さはなかった。闘争で荒れ果てた土地ではなく、穏やかに澄み切った空の下、湖畔に広がる、のばらがなびくこの草原で消えていくのだとしたら、まんざらでもない。そしてさよならを告げる間もなく「どこか」へと帰ってゆけると信じて旅立った仲間たちも、きっと同じようにここで消えていったのだから。

 体の奥から一等熱いものが弾けようとしている衝動を感じる。今まで戦いの度、早鐘を打つように動いていた自分の心臓。この異世界でできそこないのまがいものの人形たちと彼を隔てていた唯一のもの。胸の上からそこに手を宛てたつもりだったけれど、もうその手の先は殆ど透けていた。
 これが最期なのを分かっているのかいないのか、それでも懸命に彼の心臓は何かを全身にめぐらせようと収縮運動を繰り返している。
 いよいよ、このままからだが灼かれてしまうのではないかと思うほどの熱量を掌越しに感じさせる青年の胸部から、もう一方の手で抱えたクリスタル――彼を召還した神の写し身――と共鳴するように、今まで他の部位が放っていたやわらかなそれとは違う、強い光があたりに照射され始めた。その色はいつかそれを見て誰かが微笑んだのばらの色彩や、薄い皮膚の下から透ける血潮の色に似ていた。生命力を感じさせる透明で身を焦がす光に彼は全身を包まれる。

 さっきまで「      」と呼ばれていた彼は、つま先からしゅわしゅわと弾ける泡になる。彼の核を形作っていた心臓のあたりに渦巻いていた強いエネルギーもその肉体のくびきから解き放たれ、光の筋を描いてあらゆる方向へと拡散していった。

 流されるがままに、光の氾濫するトンネルのような場所をぼんやりと、思念だけとなった彼はたゆたっていた。見覚えのある異世界の景色や、彼がこの「最後の」輪廻では経験しなかった出来事の記憶が次々に圧倒的なスピードで押し寄せてきて、その瞬間にやっと彼は誰かが言っていた闘争の輪廻の意味を知った。しかしそのイメージたちもやがてどこかへ吸い込まれるように去っていく。
 それが消えていく先が気になって後ろを振り返ったけれど、そこにはほんとうになにもなかった。ただそこにはぽかんと黒い、底の見えなく深い穴が広がっているだけだ。その穴はこうやってその暗がりを見つめる間にもどんどん大きくなっていく。
 気が付けば彼は、異世界での依り代を失った時のように、ゆっくりと温く、やさしく暗い空間に飲まれていった。目や心臓を灼きかねないまばゆいものは何一つなく、ひどく安心する。あいつはひょっとしたらいつもそんな気持ちでいたかったから、あの格好をやめられなかったのかもしれないな。ふとそう思ったけれど、あいつが誰だったかもう思い出せない。

 意識が薄れていくことも全くは怖くはなかった。もういっそまどろむようにそこに解けていこうとした時、ふっと遠くに、夜のしじまの中、明かりの灯った窓が見える。
 なんだかそこに近づきたい気がした。
 あるはずのない手をそこへ伸ばしてみる。その窓辺に座る自分と同じ顔をした青年は立ち上がり、窓を開け放って、両手を広げた。
 ぬかるむやみをふりきって、かれのむねにとびこむ。もう一人のおれに「ただいま」というとかれはとまどったようなかおをしたけれど、それからなんにもいわずにわらった。