不出来なエチュード

 簡素な寝台の上、着衣のまま、ぴったりと背後からその男に寄り添って、きしきしとした指通りの悪い髪を手櫛で梳かしてやる事しばらく。されるがまま自分に抱かれるその青年が眠ってはいない事を、カイン・ハイウインド氏――この部屋の主、そして本来この寝床を独占し、窮屈な思いなどせず眠る権利を持っているはずの人間――は、緩慢に毛づくろいをしてやる合間、ぽつぽつと言葉を掛けるたび返ってくる、酒焼けで軽く掠れた声で知る。
 全くこの友人殿ときたら今日が非番であるのをいい事に、酷く飲んだ足でそのまま自分の寝ぐらを訪ねてきたらしかった。

昨晩の夜半、突然聞こえてきた足音と遠慮がちなノック。誰だ、と尋ねる間もなく抑えたボリュームで聞こえた「こんな時間にすまない」という言葉にカインが枕元のランプを手にドアを開くと、暗がりの中に端正な顔の幼馴染の姿が浮かび上がる。頬は軽く上気して見えるし、素朴なリネンシャツの首許はボタンが何個か外されて緩められ、何ともしどけない様子だった。出してやった水に口を付け、身に着けていた釣りズボンや無骨なブーツを脱ぐとそこそこに、申し訳程度に小さく身を屈ませ、先程までカインが温めていた床にシャツ一枚でセシル・ハーヴィ氏は落ち着いた。
 朝の礼拝を知らせる鐘の響きで家主が目を醒ましても、日が高くなり城へ向かわなくてはならない時間になっても、寝入った時とあまり変わらぬ姿勢でセシルは泥のように眠っていた。

 彼が起きた時のために食卓にナイフとオレンジを置いて部屋を出てきたのを随分昔に感じながら、今、夕の日を浴び輝く金髪の青年は行き交う人で混み合う市場の中を食料でいっぱいの紙袋を抱えながら、自室への道を急いでいる。決して立派なものではなく、日当たりが良い事以外は至って普通の城下町の部屋を、兵学校を出てから借りている。幼少の頃に他界した両親や従者たちと住んでいた屋敷は手放しこそしてはいないけれど、時折手入れに訪れるくらいだ。一人で住むにはあまりに広く物悲しい風情だったし、何より家族も持たぬ一兵士には必要ないものだ。
そうして、安普請の貸し間の何が良いのか、最近のカインの親友といえば、よく昨晩のように尋ねてきては、特に何をするわけでもなく、時間を過ごして帰っていく。閉じこもるより、昔あのお姫様――もう一人の幼馴染と三人でそうしたように「遠出でもしないか」とそれとなく誘っても、笑って首を横に振る姿を何度見ただろう。他でどう振舞っているかは知らない、だけれど少なくともカインの前で横たわるセシルは隠し事が下手な優等生に映っていた。あの懐かしい学生時代、少し前に過ぎた少年の頃の彼のような。

 帰ると、西日が照らす部屋の中、近頃益々悩みを深くしている様子の親友は寝台に腰掛け、何かの本に目を通していた。荷物を抱えたカインを見れば、それまで読んでいたらしい操艇術教本を閉じ、ごく柔らかい目をしながら「おかえり」と呟いた。

――そんな風に、眩しいものを見るような視線を向けられる者の胸の痛みなど知りもしないで。しょっちゅう尋ねてくるお前の落ち込みに気が付かないほど、俺だってマヌケじゃない。
 苛立ちと共に頭を過ぎったそんなセンテンスをぶつける代わりに出来たのは、遅くなった、という言葉と共に友人を一瞥する事、短く息を付いて気を落ち着かせることだった。買い込んだ物をキッチンに置きに行った時、今朝出しておいたオレンジがそのままそこにある事には気が付いたけれど特に言及する事無く、カインはセシルの横に腰を下ろす。

「いつもすまない、長居してしまって」
「……別に留守の間に居る分には構わんさ、それよりも尋ねてくるならもう少し早く来い、それからたまには付き合え、よ」

 そうやって話の合間にした何気ない挨拶みたいなキスも、目を細めながら続けた「腹減ったろう、何か食いに行こう、そうだ久しぶりにあの食堂は?」も「飽きれた不摂生もいい加減にしろ」という苦言のつもりだったし、セシルの、賑やかな所で食事する気分じゃない、という答えを聞いてもなお、他の店の名を上げたのは、聞く耳も持ちたくないという意思表示のつもりだった。
 気にせず食べてきなよ、お前が出掛けてるあいだには帰るから安心して、の声を聞きながら、雪崩れるように体を倒してもう一度口付けたのも「ふざけるな」と言いたかったからだし、そのままそのふざけた友人ごとベッドの真ん中に転がって、未だにこうやって横抱きにしているのは飽きれて物が言えないからだ。自分の不在の間に身を清めたのか、髪を梳く手に時々くすぐったそうに笑うセシルの背中からは石鹸の匂いが仄かにする。
ミルクくらい沸かしたら飲むだろう? なあ、セシル。これ……そろそろ手入れしないとな、まだ伸ばすつもりなのか。セシル、セシル、セシル。
そうやって体を寄せ、睦言をささやくみたいにしている事が我ながら酷い甘やかしようだとは思わない。転がり込んできた翌朝には、有無も言わさず叩き起こして、部屋から放りだしてやる方がむしろずっと優しいとカインは感じている。構い立てず、何に悩みを深めているのか上っ面の興味だけ遣って、何にも知らないまま「じゃあ頑張れよ」とドアを閉めたり、夜半自分のベッドにやって来るセシルを追い出していた少年の頃の方がずっと彼を傷つける事は少なく、都合が良かっただろう。まるで不慣れな子供が演奏する練習曲の中のミスタッチに気づくように、セシル、の一言ごとに気をはりつめていくような、腕の中の男を感じると、本当にそう思う。

「明日、飛ぶんだ」

 やっと相槌を打つでもなく、生返事でもなく、セシルがその話を始めたのは、カインが髪を弄るのにもいい加減飽き、後ろから彼の首筋に指を伸ばしたその時だった。もう一度、噛み締めるみたいに、明日、と聞こえた。何が、と問いただすのを見透かしてか、軽いため息の後、言葉は続く。

「前から話してただろ、シドの設計した新型飛空艇の事」
「ああ……嬉しくないのか」
「嬉しいよ。ただ……しばらくまた会えなくなるよ、きっと」

 外交会談などの席で隠密裏に陛下の身辺警護をする以外、殆どの時間を飛空艇技師であるシド・ポレンディーナ氏の研究に必要な資金・物資の獲得等の航空技術関連の案件に費やしていたセシル――最も本人は冗談っぽく「干されているんだ」なんて言っていたけれど――が、実戦用の飛空艇が完成したあかつきにはそれらの運用を統括するポストに付くだろう、というのは軍部でしきりに囁かれていた事だったし、近々部下を持つという話を本人から聞いた時にはいよいよかという予感がしたのを覚えている。
 だからこそ今、セシルの声に晴れやかな物を感じられないのは少し不可解だったし、その理由が彼が陸兵だった頃みたいに、自分と顔を合わせる事が難しくなる、という事だけとはとても思えなかった。
 暗黒騎士として国王陛下と国に仕える事を認められたばかりのセシル――加減も分からず修練のたび、人間的な感情も生命力も全て悪鬼の力を生む鎧と剣に捧げ、気持ちを蝕まれていた頃の不安定な彼はカインの体も慰めも貪欲に求めたけれど、あれから時間を経て、精神の均衡を取り戻した今ではそんな風に自棄を起こす事も殆ど無くなった。塞いで見える時だって、そこには理性の光が確かに宿っている。中途半端に肌を許し、どっちつかずの親密さで傷つける人間などに依存せず立っていけるだけの、ヒトとしての尊厳を確かに彼は取り戻したはずだ。だとすれば何を憂える事がある。
 らしくないけれど、もしかしたら今まで以上に責任ある立場に成る事を恐れているのかもしれない。

「何か不安でもあるのか、お前」
 何気なく発したカインのその言葉が引き金になったみたいにセシルは肩を震わせる。そして殆ど聞こえないくらいのボリュームで呟いた。おかしいんだ。
「城の雰囲気がおかしい、人が変わってしまったようなやつがなんにんもいる、なあおまえはかんじないのか、カイン、」
 どうなんだよ! 突然声を荒げた彼は自分の腕の中から逃れると今度は向かいあう形になり、飛び掛かるみたいな勢いで両肩を掴んできた。そんな親友の姿にカインがしばし呆然としていると、先程とは丁度反対に、ほとんど叫ぶみたいに何度も名前を呼ばれる。カイン、どうして誰も火に包まれるこの国を見たがるんだ? なあ、カイン。どいつもこいつも狂ってしまったんだ。どうしたらいい、カイン、ぼくは。
 そうやって肩を揺すられながら聞く言葉が誰かの耳に入ってしまった場合、きっと親友はその身を危うくするだろう、という予感に駆られ、カインは反射的に彼の口を手で塞ぐ。それから必死に、しかしなるべく冷静に聞こえるような口ぶりでなだめてやる。
「すまない、頼むから……落ち着いてくれ、聞こえてしまう……そう、そうだ」
 子供に言い含めるみたいに言葉を掛けるうち、やっと抵抗を止めたセシルと目が合う。
信じられないものを見た驚きとどうしようもない怒りの滲む表情の瞳。カインが口を押さえていた手を離すと、まだ軽く胸を上下させている青年は人聞きを避けるように、声を抑えながら言葉を繋ぐ。

「……陛下は相変わらず穏やかでいらっしゃる。だのに、しょっちゅう戦争をやりたいやつらが度々やってきては彼をそそのかそうとする。一体何がバロンの驚異になるの? ミシディア国の魔法? それとも異教の神々の力を使役する民たち? 僕には分からないよカイン、バロンが今以上に力を持たねばならない理由が」

 ああ、そうだな、とカインが口にしたのは慰めでも単なる相槌でもなかった。お飾りとすら言われる事もあった竜騎士団に対して、今まで以上に訓練を強化するようお達しを出した軍上層部の態度からも、忍び寄る軍靴の響きを確かに感じていたのだから。
「今は陛下の側を離れたくないのに。
あれが出来てしまったらおそらく……」
 それは勿論、背中を思いっきり叩いてやる代わりだった。突然頬に落ちた口付けに、あっけにとられたみたいな顔をする親友。もっと安っぽい共感の言葉を続けた後、二人で飛空艇の完成がもたらすかもしれない争いの日々の影に怯えるのもいいだろう。どの道、戦火がこの国に広がり、バロンが傾く時にはきっと自分もこの昏い目をした友人と戦場を駆ける定めを共にするのだろうから。けれど、まだその日は遠いはず。

「安心しろ、近衛兵団も俺の所の奴らもいる。どだいお前一人で背負い、守れるモノじゃ最初からないだろ、国も、陛下も。
なあ、こいつはすごい事だぞ。何にせよ新しい時代が来るんだ、おまえが立会い、牽引しなければならない。それがあの方の為にならず誰の為になるって言うんだ?」
「うん……だけど、」

 不敵にも見えるだろう笑い顔のまま、少年の頃ならば許されたかもしれない青臭い言葉に、言ったそばからカインは少し照れくさくなる。いたたまれなくなり、いまだすっきりしなさそうな男に背を向けると、やっと寝台を離れた。
「ほら、そこ座れ。そんな髪のまま、親友を新造艇に乗せるわけにはいかん。観念するんだな」
 食卓の側の椅子を指差し、有無を言わさず、体を横たえたままの人の手を取る。これから後、彼の旅路が常に安らかならん事を、そして全てが杞憂に終わることを願わずにはいられなかった。