わっかんないんだよなあ

 本当に久方ぶりの雨だった。さあっと肌を撫でる霧みたいな雨だれは戦果もなく疲弊しきってホームグランドへと帰ってきた自分達へのねぎらいのように感じた。

 立ち枯れた低木や荒れた道、不快に乾いた空気しかない今までの旅路とは全然違う、コスモスの領内に広がる清浄な水辺の風景や空気はたとえそのほとんどが暗い雲の下にあっても心慰めるものに他ならない。
 水溜りのようなごく浅い泉、湖と呼べるほどの広大なもの、大小さまざまのものが行く先に点在しているのが見える。本拠地への道を歩いてくうち、肌を打っていた軽い天気雨は止んでしまったけれど、それでも長い旅の疲れが少し紛れた気がした。

「……全然、水も淀まないんだね」
 薄く土ぼこりをかぶった、全身を覆う黒い具足に身を固めた仲間も、今この時は顔を覆い隠す兜の覆いを外して、少し歩く速度を緩めながら、眼前に広がる安らいだ風景を眺めているようだった。せっかくあらわになった色の薄く、端正な顔貌も心なしか煤けて見える。仲間になってより、セシルはいつも穏やかな表情をしていたように思う。だからこそ、血の流れる戦の場において彼が見せる、仲間の誰よりも冷ややかで、硬質の何かを思わせる表情を目にする度、とてもそれが同じ一人の人間だとはティーダにはにわかに信じられなかった。そして今だって。怖い顔をしている。

――セシルも疲れたのかな、やっぱり。うじゃうじゃ沸いてくる奴らの他には、敵の一人もやっつけられなかったわけだし。オマケにめぼしい物もナシ、じゃあなあ。
 
 疲弊しているのは自分も同じで、その証拠に掛けられた言葉に相槌を打つ事まで忘れる始末だった。けれど自分達の拠点に戻ってきた安心感からか、不思議とカラ元気を出すくらいの力は戻ってきたような気がする。大きく息を吸えば両頬を軽く叩き、気合を入れ直す。
「なあ、せっかくここ、こんなに水キレイなんだし、顔洗った方がいいっスよ! セシル、頬、真っ黒になってる」
 それまでの疲れなどなかったように、急に元気を取り戻したみたいな自分の言葉に虚を突かれたのか少しばかり彼はぽかん、としていた。それから近くの水辺に顔を映せば、ちょっとだけ笑った。
「ほんとうだ……これはひどい。
 ティーダ、ありがとう」
 セシルのそんな顔を見るのは、なんだかとても久しぶりのような気がした。

 低い雲間から柱のように差す光で小さく揺らめく水面は乱反射する。同じ水でもティーダやその仲間が今までや、今回の旅で目にしてきた荒れた外海とは大違いだ。生きているものの気配のしない砂浜に打ち寄せる淀んだそれや岩を削る波はまがまがしく、妙に厭らしい感じがするのだ。触れたところからたちまちこの身が穢れていきそうな、暖かさだって微塵も感じない海ではとても泳ぐ気など起きる訳がなかった。

「急ぐ旅じゃない、少し休もうか」

 やや後ろを歩いていた、ティーダよりも年嵩の、大剣を背負った彼が言い、その横で声もなく、浅黒い肌の青年が頷く。フリオニールと呼ばれる、旅慣れているような服装をした彼もさすがに大陸の端から端へ歩けどもほとんど戦果のなかった今回の探索は堪えたらしい。普段ならばつい浮かれたり、先走ってしまうティーダを親密さを込めた苦言でもって諌めてくれるのに、ここ何日かはどこか言葉少なで。今だって。手ごろな場所に荷物を降ろし終え、膝を立てた姿勢のままうずくまったフリオニールの様子が気にならない訳が無かった。

「なあ、フリオ、大丈夫か? どこか痛むのか!? セシル、クラウド、フリオにケアル……」

 自分の荷を降ろす間もなく、フリオニールの元へ賭けていこうとするティーダの肩を誰かが掴んだ。振り向けば、掛けられたその手は確かに今しがた小休止を提案した仲間のもので。そうして緩く頭を振ったクラウドの穏やかな口元や、続いたセシルの「大丈夫みたい」の言葉が示すように、促された視線の先には依然疲れた表情を浮かべつつも、聞きなれない呪文を抑えた声で詠唱する、フリオニールの姿があった。
 ごく淡い光に包まれ、みるみるうちに仲間は生気を取り戻していくようだった。先ほどまで険しかった表情も少し柔らかなものへと変わった。やがて一通りの治癒が終わると、己が鼓動を確かめるように左胸を押さえて呼吸を整えつつ、まだどこか呆然としながら、フリオニールはこちらを見て、呟いた。

「さっき、思い出したんだ。今までこんな魔法が使えるなんて思いもしなかった、確かに自分に馴染んだ力なのに」

 思えば彼に起きたような事は確かに自分や他の仲間にも起きていた。ある時、突然、「まるで思い出したかのように」新しい技が身に付いたり、見知らぬ、しかし確かに親愛を感じる人々の顔が急に浮かんできたり。
 誰かと剣を交える度、自分や仲間と同じ姿の、まがいものの出来損ない共を屠るほどに様々な記憶が蘇ってくる。
 いつからかティーダと仲間達はそう考えるようになった。帰る場所が確かにあると信じれば、いつ終わるかも分からない戦いの日々で抱く不毛さも紛れる気がしたから。

「あまり心配させるな」
 ようやく自らも荷を解いたクラウドに窘められ、少しばかりフリオニールはばつが悪そうだった。手負いのまま先に進もうとしなくなっただけ、前よりずっといい、と冗談めかして続いた言葉にはもっと。
「そうだね、最初の頃は危なっかしくて見てられなかった。
フリオニールだけじゃなくて、ティーダもだけど。でも、その魔法、すごく力感じるよ、良かった」
 思わず耳が痛くなるような言葉はセシルからも続く。けれどそれは責めるような口調ではなく、仲間の成長を心から喜ぶ、穏やかなものだった。
「悪かったな、戦いのシロートで~。でもスジがいい?んだろ? オレもフリオも。なっ、フリオニール、」
 でもまさか自分の話まで持ち出されるとは思ってもいなかった。据わりの悪さに助け舟を求めて声を掛けた仲間は、ああ、と返事を返してくれたものの、どうもまだぼんやりとした様子だった。伏目になったアンバーの瞳と軽く結んだ口元。

――もしかして、拗ねてるのか? 違う、ははぁ、さては……照れてる。
 喝采や賛辞を甘んじて受ける事にも、好ましく思っている人間に褒められ、それに口を噤むことなく無難に対処する事にも、きっと不慣れなんだろう。フリオニールは呆れるほど隠し事が出来ない、真っ直ぐな男だ。
 眉根を寄せ、すっかり人知れず恋に悩む――もちろん彼が好意を寄せている相手の他に、それを知らない者などいないし、ともするともう相手にだって気づかれているかもしれないっていうのに――いつものシャイなフリオニールの姿にホッとすれば、いよいよ久しぶりに目にする清らかな水辺の風景を目の前に、ティーダは居ても立っても居られなくなってくる。眼前に広がるのは、おあつらえ向きの大きさの湖――というよりは水溜りと言うほうが合っているだろうか。どちらにせよこんな機会はめったにない。

「……なあ、ここ、泳げると思うか?」
 背後から問いかけに「大丈夫じゃないか」という声が聞こえれば、もう一秒だって待っていられやしない。仲間達の方は向かずに後ろ手を大きく振り、それからそのまま水の中へと駆け足で入っていく。足元が濡れることなどちっとも気にならない。
 水溜りを半分ほどまで進んでいく。それでもやっと腰が浸かるくらいの深さだ。やはり期待したほどにはそれが深くない事を知れば、立ち止まり、両手両足を開いて、そのままその場で後ろに倒れた。
 疲れで火照った体を包んでいくひんやりとした感覚が心地いい。これも確かに覚えのある感覚だ。そのまま、しばらく目をつむって休んでいると、遠く自分を呼ぶ声がする。ティーダ、ティーダ――記憶の中にうすぼんやりと浮かぶ女の子はいつも名前を呼ぶより、キミと声を掛けてくれた気がする。意外と意地っ張りで、人に隠れて悩んだり泣いたりする、でも強い子だった。だけど、その声はこんなには低くなかったような――ティーダ! 心配するような響きの声が気になり、立ち上がってそちらを見れば、呆れたような顔でフリオニールが立っている。岸に近い所で具足を付けたまま、足元だけ水に漬かっている。

「どうしたかと心配したじゃないか」
 やれやれ、と言わんばかりに彼がため息をついた事がどうにも腑に落ちない。確かに一つしか違わないのに、時々ひどくフリオニールは大人に見える。三つ、四つ離れたクラウドやセシルはもっと。きょうだいが出来たようで、年の近い仲間がいるのは嬉しい。けれど。
 フリオニールとの距離を詰めていけば、足元の水を掬って、そのまま真ん前の彼に掛けてやる。
「っつーか、さっきまで心配させてたのは、誰だっつーの! もー、全然大丈夫っスよ!」
 直撃を受け、見事に頭から水を滴らせている仲間は、にっ、と口の端を吊り上げれば、やったな、と呟くやいなや、カウンターを仕掛けてくる。そのまま、互いに笑いながら、戯れに何度か水を掛け合った。これだから、フリオニールは。
――わっかんないんだよなあ、そういう所がらしいんだけど!
 待ってろよ、と言い残し、身軽な服装になるため岸へ向かっていく、付き合いがいいのか、案外子供っぽいのか未だ掴みかねている仲間を、ティーダは目を細め、眺めた。