まどろみの街で

 昼時を過ぎ、さんさんと砂漠特有の厳しい日差しがブレイダブリクの街並みを眩く照らす頃、意外なほどに市中は静けさに満ちていた。普段なら人々が多く行き交う市場に喧騒はなく、時折、暑さをものともせず遊ぶ子らの声が聞こえてくるくらい。まるで街全体が午睡を取っているようだ、と思った。
「みんな、何してんのかな。こんな静かだと街が居眠りしてるみてー」
 商人たちが着るような簡素な衣服とターバンをまとい、高貴なる金の髪や碧色の瞳をカモフラージュさせたバルトロメイがそう呟くものだから、向かいに座るシグルドは少しばかり目を見張り、それから微笑んで頷いた。
「そうですね。皆、暑さが和らぐまで休んだり、気の置けない友人たちと茶を飲んでみたり、思い思いに過ごしているのだと思いますよ――今のわれわれのように」
 デウスの脅威が去り、ややしばらくの時間が過ぎた。アヴェのみならず、イグニスや他大陸復興のため、シグルドの唯一の主であるバルトはファティマ城とユグドラシルを行き来しながら、日夜慌ただしく過ごしている。この数週間は国内の課題を解決するため城に滞在していたが、各地から届く報告レポートや様々な町や村々、工業ギルドから上げられる要望・嘆願書の膨大な量に、ただただ彼は翻弄されていた。
 最初は「だ~~ッ、どうすりゃいいんだよ、コレ」とか呟きながら頭を抱え、次はうろうろと机の周り、そして城の回廊を歩き回り、ついには悪態をつくことをやめ、静かに椅子に座って煮詰まった様子を見せ始めたあたりで、メイソン卿が動いた。
――若、大変にお忙しいご様子のところ、申し訳ございません。この爺のため、少々お使いを願えますかな? 寄る年波のせいか、今日は膝が痛んで痛んで……。
 少し大袈裟な卿の演技を疑うことなく、彼は紅茶に入れるオレンジの手配を二つ返事で引き受けた。気に入りのレッドジャケットを身に着けたまま市街に出ようとしたのでシグルドが引き留め、少しの変装を施し、城から街へと繰り出したのがややしばらく前。しかし、肝心の果物を扱う市場は夕方の涼しくなる時間まで閉まっているため、『仕方なく』マーケット近くのカフェへと逃げ込み、店が空くまでの間、時間をつぶしているというわけだった。通りに面した窓から街並みを見下ろすバルトの表情は、執務机に座っていた時とは打って変わり、生き生きとした様子が見て取れる。
「何か面白いものでもありましたか?」
「いや、さ。単純に知識として知ってるのと、実際に見てみるのとでは全然違うなって」
 昼下がり、大都市には似つかわしくない、のどかな顔を見せるブレイダブリクの姿にシグルドの主君は何か思う所があるのか、満足げに微笑みながらそう口にする。元々バルトロメイ・ファティマは机の上だけでまつりごとをするタイプの為政者ではない、というのが長年近くで彼の姿を見てきた者達の共通認識だ。
「どちらかといえば足で稼ぐ方ですからね、あなたは――どうしましたか、そんな顔をして」
 冷たい茶で喉を潤したバルトは、じとっとした目でシグルドを見つめ、それから一言「それだよ、それ」と不満げに呟く。
「それ、とは」
 合点がいかず、首を傾げれば、主君はじれったそうに、それから抑えたボリュームで言葉を続ける。
「だ・か・ら・言・葉・づ・か・い!」
 精一杯の囁き声で伝えられた抗議の言葉に、ようやく何が気に入らなかったのかがシグルドにもはっきりと分かる。
――要するに変装をしているのだから、必要以上に畏まるな、ということか。
「承知した。今日は帰るまでは、君と俺とは、ただの――」
 頷き、目の前のバルトロメイを見つめながら、そう子供じみたごっこ遊びの宣言をしようとしたが、それ以上どう言葉を続けるべきかわからなくなってしまう。主と参謀でも、異母兄弟でもなく。友人というのもまた違うだろう。それなら――。
「ただの、シグルドと、バルト……でいいんじゃねぇの。難しく考えなくても」
 そっぽを向きながら、ぶっきらぼうにそう言い放ったバルトロメイの表情に少しの照れくささのようなものが滲んでいる。本当に真っ直ぐで嘘が付けない人間だ。だからこそ、皆が彼を慕い、信頼を寄せる。
「ああ、そうだな。『バルト』」
 不敬かもしれないが、これも一時の遊び、主君のための気分転換だと腹を括ると、意外とすんなりと言葉が出てくる。そんな己が少しばかり面白く、シグルドは小さく笑いながら俯いた。

 カフェでの短い休息の後、人通りの少ないのをこれ幸いとバルトロメイと共にシグルドはブレイダブリクの街をぶらぶらと散策する。普通の兄弟ならば、こんな入り組んだ路地で隠れて遊んだりした記憶と共に育つのかもしれない。家々の間には物干しロープが渡され、色とりどりの洗濯物が干されているのを何とはなしに見上げる。開け放たれた窓からは人々が談笑する声が遠く聞こえてくる。
「やっぱ、水場も少し年季が入ってきてんなー。近いうち直さないと……」
 各家庭で使う生活用水を供給する共同水道のそばにバルトはしゃがみ込み、その経年劣化の具合を熱心に確かめている。彼が立ち上がるそぶりを見せたので、ついいつもの癖で手を差し伸べてしまってから、あ、と声が出た。主従でない「ただ」の二人はこういうことをするだろうか。しかし、迷いなく彼の主君はシグルドの手を取れば、体勢を立て直す。
「……やれやれ、体に染みついた習慣はなかなか抜けないな」
「悪い事ではねぇだろ、別に。俺は嬉しいけどな、そうやってお前がいっつもしてくれるの」
 膝を叩いて、軽く土埃を取り去った後、そう屈託なく微笑む青年の姿はどこまでもまばゆい。建物の隙間から差し込む陽の光に照らされ、美しい砂漠を思わせる金の睫毛や金の髪、そしてファティマの碧玉もきらきらと輝く。あんまりまっすぐに彼がこちらを見るものだから、意味もなく胸がざわりとし、シグルドは彼から軽く目を逸らした。
「そうか。それで君は次はどこへ行くんだ?」
「んなの、決まってるだろ――テキトーだよ、テキトー!」
 いたずらっぽく笑えば、今度はバルトがシグルドの手を取り、勢いよく走り始める。虚を突かれ、思わず足がもつれかけてしまう。へへっ、大丈夫かよ。ちゃんとついて来いよな、と口にしながらしっかりと己が手を握り、路地を駆ける彼の背中に、これではあまり普段と変わらないんじゃないか――と言うべきか言うまいか、シグルドは少し考える。

 太陽が西に傾き始める頃、それぞれの休みから街の人々がぱらぱらと戻り始める。ごった返す前にと市場で頼まれた果物を調達しにいったところ、「兄ちゃんたち、ずいぶん男前だね! よければこれも食べてみなよ」と売り子の女性に砂漠イチゴやらなにやら色々なものを次から次に味見させられ、ついには頼んでもいない果物や、デーツを加工したチョコレート菓子をお土産に持たされてしまった。
 城へと戻る前に人心地付こうと、シグルドは彼の主君と共に街を見下ろせる高台のベンチに腰掛け、小休止を取る。
「……なんか、すごかったな」
 中身がパンパンの紙袋を抱えながら、あっけにとられたような声でバルトがそう呟く。
「ああ、口を挟むヒマもなかった」
 人のペースに巻き込まれる彼の姿を見ることなんて早々ない。珍しいものを見た面白さにシグルドは小さく微笑んだ。
「だけど、こんなに貰っちまって逆に悪ぃな……最初は焦ったけど、いい人でよかった」
 そうだな、と呟いたシグルドの手の平に、隣に座る青年が何やらちんまりしたものを載せる。薄い紙に包まれたそれは多分ファッジ。
「お駄賃。付き合ってくれた礼にと思って、さっき市場で買ったんだ」
 一瞬、市場で「ちょっと野暮用足してくる」と姿を消したのはそのためだったのか。してやったり、とニヤニヤとした笑顔を浮かべているのが何とも彼らしい。大分悩みも晴れたのか、今朝よりずっとさっぱりとした表情を浮かべている。この外出が気分転換になったのならば何よりだ。
「では、ありがたく頂戴するとしよう」
 包み紙を丁寧に開き、口の中に菓子を放りこめば練乳や砂糖のまろやかな甘みが広がる。暑い中、西へ東へと歩き回った疲れによく効きそうな味だ。
「――なぁ、ちょっと味見したい」
 今は「主」でも「弟」でもないその人が顔を寄せ、不意にシグルドの唇をぺろりと舐める。髪の印象もあり、まるで毛足の長い犬みたいだ。
「ちょっと、若……!」
「あー、めっちゃシグの好きそうな甘たるい味……」
 好き勝手なことをした挙句、一人納得顔を浮かべるバルトロメイの横顔を見ていると、先ほど街中を共に歩いていた時と同じ、動揺なのか苛立ちなのかわからない情動が込み上げてきて。もうごっこ遊びをやめ、元通りの二人になって城に戻る時間だっていうのに、何故かシグルドの手は、指は、一つとなりの青年の頬へと延びていってしまう。いつもより少し早まる鼓動を感じながら、子供じみた口付けを上書きするように、顔を傾け、深い口づけを落とす。誰でもない「バルト」はそれを拒まず、甘んじてそれを受け入れた。
 ぬるいな、口付けというのはこういう風にするものだ、と相手の耳元に囁きながら、日の光が夕刻のそれに代わっていくのをシグルドは感じる。ああ、白昼夢のような時間がもうすぐ終わる。