俺たちは/僕たちは目にも止まらぬ速さでどうしようもなく恋をした

1.それは目にも留まらぬ速さで

 その大陸は「悪意マリーティア」の名にふさわしく、ぐるりと周囲を高く険しい山々に囲まれ、全ての人間の来訪を拒んでいるような印象だった。中心部には落ちたら一たまりもなさそうな大瀑布が広がり、さらにもっとも標高の高い場所には、常に暗雲に包まれた神殿がそびえ立つ。
お世辞にも過ごしやすいとは言えない、見知らぬ場所に突然放り出された異世界からの戦士――元の世界では、パラメキア帝国に抗うフィン王国反乱軍の一員として剣を取っていたフリオニールは途方に暮れていた。
 目覚めて最初に目にした景色は、深く暗い夜の森。かろうじて月明かりが辺りを照らしていたから見通しが多少効いたものの、新月の晩だったなら土着の生物や魔物から身を守ることも難しかったろう。
 ポーションや多少の食料、元の世界で愛用していた武器の類は持ったままのようだったが、それでも突然見覚えのない世界で目覚め、戸惑わないわけがない。しかし、今夜フリオニールがついていたのは、月齢だけではなかった。
 おそらく世界を渡ってきた直後、異変に気付いたのだろう。同地域を担当する「リターナー」を名乗る、夜闇によく馴染む静かな男――彼はシャドウと名乗った――がすぐにフリオニールの元へ駆けつけ、簡潔に事のあらましを説明した。
 ここが異世界であること、「エドガー」という男に雇われ、「リターナー」としてフリオニールたち異世界の人間を運んできた「ひずみ」と呼ばれるものを閉じて回っていること、別の勢力として「モーグリ」と呼ばれる精霊に与する一団がいること。
――ええと、これから俺はどうすれば……?
 フリオニールがこぼした疑問に、シャドウが告げたのは、リターナーの盟主・エドガーからのたった一言の指示。それは「指示」とは到底呼ぶことはできないものだった。
『自分の意志で、守るべきものを守るように』
 要するに彼らのように「ひずみ」を探して閉じて回るもよし、考えがあるならば協力しないという選択も尊重されるということのようだった。もし彼らに協力するというなら、何らかの手段で連絡は取れるよう、取り計らってくれるという。
 異世界についての知識もなく、何が起きているのかもまだ分からないフリオニールには断るべくもなかった。
 委細は追ってまた伝えると言い残し、最初からその場にいなかったかのようにシャドウは闇の中に消えていき、フリオニールだけが再び、暗い森の中に残された。
 エドガーからの指示を聞いた瞬間、頭に浮かんだのは仲間たちの顔。大切な家族であるマリアやガイ。頼れるレイラやヒルダ王女をはじめとする、反乱軍として運命を共にする人たち。そして、きっと無事であるはずだと今も信じているレオンハルト。彼らもこの異世界へと飛ばされてきているのだろうか。シャドウの口ぶりは――少なくとも彼自身はフリオニールを知る人間に出会ったことない事実を示唆していた。
 守るもののない、戦う敵の正体の分からない反乱軍、か。
 火をおこし、今晩の野営の準備をする青年は少し寂しげに微笑んだ。
 その時、不意に胸にこみ上げてくる記憶があった。

――のばら咲く世界が君の夢?
 いつかフリオニールが『フィンやパラメキアに滅茶苦茶にされた土地に平穏をもたらしたい』という思いを打ち明けた時、不思議そうに首をかしげ、それから『真っ直ぐで素敵な夢だね』とすみれ色の目を細め、花がほころぶように微笑んだ美しい人がいた。
 その男のやわらかな声を耳にするたび、ちょっとした瞬間に手が触れる度、あるいはじっと見つめられる度、フリオニールの頬は燃えるみたいに熱くなった。上手く言葉を返せず、触れた手を慌てて引っ込めたり、つい動きがぎこちなくなってしまったり、いつもそんな事の繰り返しだった気がする。
まっすぐ目を見られず、恥ずかしさのあまり俯くたび、「どうしたの」とその人は訊ねてくれたけれど、お互いその理由は分かっていたように思う。残された時間が少なくなってきたことを実感するようになったある日の晩、フリオニールと彼は旅の仲間から少しばかり離れ、思いを確かめ合った。
――もっと早くこうしていればよかったね、僕たち。
 己が腕の中で、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべたその人の声には拭いきれない後悔が滲んでいたし、重なる唇にも、フリオニールの灼けた熱い肌に触れる白い手にも、「もっと深くつながりたい」というはっきりとした情欲が感じられた。
 今、フリオニールが投げ出された、マリーティア宮殿近くの黒き森によく似た場所で、月のない晩、二人は息を殺し、声を抑えて、初めて交わった。
 別に誰かに見られることや、関係を気取られることが恐ろしかったわけではない。きっと、怖かったのはもっと別の何かだ。例えば、これ以上互いを好きになってしまって、別々の世界へ帰っていくことが耐えられなくなってしまったら。もしくは恋しい相手の記憶を持ったまま、分かたれた時を生きていかねばならなくなったら――時折、フリオニールと「彼」の話には、共通する地名が出てくることがあったけれど、元の世界に帰った時、もしどちらかの世界がずっと過去で、あるいはずっと先の世だと分かって、好きだった男の痕跡をその街で見つけるようなことがあったとしたら――きっと、それはもう胸がつぶれるような気持ちになるくらいじゃ済まない。
だから、いっそ短い夢だったと思えるように、頭を空っぽにして、目の前の事だけを二人で追いかけた。不思議といい匂いのする髪を嗅いで、真白い雪のような肌に痕を残し、花畑で蜜を吸うみたいに互いに舌を使って、鋭敏な場所を吸ったり、舐めとったり、わざと水音を立てて刺激したり。
 もうこれ以上は耐えられない、というところまでお互いを高めた後、わずかに夜露に濡れた柔らかな草と土の上で、名前をごく抑えた声量で一度だけ呼んでから、彼の中にフリオニールは分け入った。そこはぬかるんでいるみたいに柔らかでとても熱く、切なくなってしまうほど狭くって、気を付けていないとすぐに達してしまいそうだった。
 本当は何度も名前を呼びたかったけど、きっとそうしたらみっともなく泣いてしまう。だからそうする代わりに眉根をきゅっと寄せ、存外に大きくやわらかな尻を掴み、彼が善さを感じられるように、ゆっくりと何度も腰を打ちつけた。その度に身体を震わせ、背中に回した腕に力を込め、フリオニールの名前を呼ぶ代わりに口付けをしてくれたあの人の名前がどうしても出てこない。
 熱いものがこみ上げる感覚に耐えきれず抽送を早めれば、
組み敷かれたその人は声には出さず、唇の形だけで「いいよ」微笑んで許しを与える。まるで吐精を促すよう、最後の一滴まで搾り取るように収縮した恋人の後孔に、フリオニールはだくだくと溢れて止まらない迸りを注ぎ込んだ。

 当然、今『思い出した』ことは元の世界で起きた出来事ではない。白く輝く鎧を着た、ふんわりと柔らかいミルク色の髪をした青年のことをフリオニールは全く知らない。あんなに美しい男はもともと住んでいた村はもちろん、アルテアにも、その後旅したどんな場所にもいなかった。
 フリオニールに起きた記憶の混乱は、謎めいた人物の存在だけではなかった。北へ東へ、時には船を使って南洋へ。様々な場所を旅していたのは覚えているのに、それが「どんな旅」だったのか、具体的なことを思い出そうとすると、突然深い霧にでも包まれたみたいに、そこから先の記憶が浮かんでこない。
――ひずみを渡ってこの世界にやってきた人間は、記憶が欠けることがある。
 シャドウが去る前に何気なくこぼしたその一言は、きっと己に当てはまらないと思っていた。だけど違った。
 絶対に忘れてはならないことなのに、それはとても辛く苦しいはずの記憶なのに。あの長きに渡る旅で何が起きたのか、語ることができないのがひどくもどかしく、同時に悲しかった。
 これは中々どうして恐ろしいことが起きているのかもしれない。ぱきり、とたき火が爆(は)ぜる音を傍らで聞きながらフリオニールは手を組み、こうべを垂れる。この異世界において、そういった祈りが意味を成すのかは分からないが、身に沁み込んだ長年の習慣で、火に宿る精霊にこれからの旅路の無事を祈らずにはいられなかった。

 それからというもの、フリオニールはマリーティア宮殿がそびえる地域の「ひずみ」をひたすらに閉じて回っていた。「ひずみ」がそこにあったことを伝えるため、野ばらを「リターナー」や「レジスタンス」を名乗る仲間たちへの目印として置き、仲間同士で情報交換を行うきっかけを持っていた。
 ひずみの情報や注意事項などの通達は、エドガーの仲間を名乗る軽快そうな雰囲気の男がもっぱら担っていた。ひずみの処理に関しては単独で動くことが常だったが、同行してくれるわけでなくとも、仲間がいるというのは心強かった。
異世界に放りだされた最初の晩は、まだ見ぬ場所への不安と、元の世界に戻ることができるのかということが気にかかり、ほとんど眠れなかったのを覚えている。ちょっとした報告の間に元の世界のことを語ることのできる相手がいるということがどれだけフリオニールを安堵させたかわからない。
最初の晩といえば――あれきり柔らかな雰囲気をした青年の記憶は特に「蘇って」はこなかった。彼と過ごしていた時分も、今と同じようにフリオニールが見知らぬ土地を反乱軍以外の仲間と旅していたことだけは理解できたが、それ以上にどんな意味が不意に浮かんだあの啓示ビジョンにあるのかが理解できなかった。あの時までは。
 見知らぬ世界で目覚めてから、ややしばらく経ったある日の朝。今回フリオニールが向かうことになったのは、開けた平原に位置する中程度の大きさのひずみだった。「反乱軍」
の仲間――この異世界において、誰が仲間で誰が敵なのかがはっきりしない以上、ひずみを閉じて回る味方についても情報を守るため、一つの呼称を用いらずに呼び合おう、という提案が数日前にあり、フリオニール自身もそれに倣った――から得た情報をもとに向かってみれば、ちょうどその通りの場所に「ひずみ」がつながっていた。
 予想外だったのは、その場所で噂程度に存在を聞いていたモーグリ一味に出くわしたことだった。
「……つまり、やってることは君と同じってわけ」
 白くふよふよと浮遊する、毛玉のような精霊が伴っていたのは、これまで見た事のない、異世界然とした装束を纏った黒髪の少女にバイザーで目元を隠した金髪の女性、そして栗色の髪をした、軽快そうな雰囲気の青年だ。
「ああ……それじゃあ、あんたたちがモーグリ一行か」
「? おれたちを知っているのか?」
 不思議そうな表情を浮かべた青年にはそれとなく、同じことをしている奴らがいる旨を聞いたと告げ、話が目印である「のばら」に及びそうになったので、早々にその場を辞した。
相手がどんな目的を持って行動をしているのか分からない以上、深入りするのは褒められたことではない。
 しかし引き続き近隣のひずみを閉じようと移動をした先でも目に留まったのは、彼らの姿だった。どうやらモーグリ一味は「反乱軍」と同様にひずみを閉じるのに加え、辺りの魔物の掃討も行っているようだ。
 煮凝りのようにぶよぶよとした見た目のモンスター――元の世界で出会った「プリン」のようなそれと、空中から魔法を操りながら少女が戦っている。
「魔導よ……!」
 金の髪を高く結わえた、神秘的な雰囲気をした少女の指先から爆ぜる炎が放たれる。哀れゼリー状の魔物はその体表の水分を失い、じゅわっと蒸発する音と共に宙へと投げ出された。それに容赦なく追い打ちをかけるよう、何者かが地上から昏き波動を放ち、追撃する。続いた攻撃によりモンスターは空中で完全に霧散した。少女に加勢したのは、漆黒の鎧に身を包んだ謎めいた男だ。
「――さよなら」
 顔貌を覆い隠す兜からややくぐもって聞こえたその声にフリオニールは確かに聞き覚えがあった。
――のばら咲く世界が君の夢?
――もっと早くこうしていればよかったね、僕たち。
 記憶の中にある姿とはひどく異なっているけれど。それは確かに、月明かりを束ねたような白い鎧を身に着けた青年と同じ声だ。凛とした雰囲気のある、気高さとやさしさを感じる響きの懐かしい声。
 驚きのあまり、なかなか声が出なくて。自分でも何を話すべきか、よく分からなかった。独りでに「この辺りの魔物を倒しているのか」とかそんなことが口からは飛び出していったけれど、正直上の空だ。
 どこか儚げで、彼女を傷つけるものから遠くあってほしいと願わずにはいられない可憐さの金髪の少女も、戦場慣れした雰囲気のある黒い具足の青年だって、まだ信頼すべき相手か判断できないし、まだこの辺りでやるべきことは残されているのに。もっと声を聞いてみたい、彼らと話をしたいという懐かしい気持ちがこみ上げてくる。
 果たすべき使命と、正体不明の気持ちのはざまで揺れているうち、落ち着きなさげな様子の理由を勘違いしたのか、先ほどモンスターにとどめを刺した彼が「もしかして、この姿が恐ろしい?」と小首を傾げて尋ねる。
 フリオニール口を開き、その問いに言葉を返すよりも早く、青年は悪鬼を模した兜に手をかけ、それを外そうとする。彼がゆるく左右にかぶりを振ると、漆黒のマスクからふんわりとした銀の髪が広がった。
その顔貌が露わになった瞬間、時が止まった。
銀色のまつ毛に縁どられた紫の瞳。透き通るような白い肌。戦化粧を施した神秘的な唇。そして、名前も分からないのに心を奪われた、ふんわりと微笑むその表情にフリオニールの目はくぎ付けになった。
身に着ける鎧の雰囲気は似ても似つかないけれど、確かに彼はあの夢のような記憶の中で見た青年そのもの。心臓が遅れて早鐘を打ちはじめ、頬がカッと熱くなる。
冷静な考えを持つのが難しくなっている自分に気が付き、やっと口に出来た「じゃあ無事で」と言葉と共に一旦その場を離れようとした時、背後から声を掛けられる。
「待ってくれ、君が「のばら」でつながる仲間のこと、よければ教えてくれないか。目的が同じなら、協力しあえるかもしれない」
 記憶にあるよりもいくばくか軍人めいた固い口調で、暗黒の鎧を身に着けた彼はこちらに語り掛けた。あまりにその声が真摯だったもので、思わずもう一度フリオニールは、少女と青年に向き直った。
きっと先に出くわした人々も彼らも、悪い人間(と一匹)ではないのだろう。不意にそう実感し、今知っていることのさわりだけ簡単に、目の前の二人と、先ほどの戦闘が終わった後ひょっこりと現れた精霊に伝えた。
 特に少女の方は、「リターナー」の名に聞き覚えがあるようで、出来るなら全て今話してやりたかったが、危険なひずみをこのままにして放っておくことはできない。二人やモーグリの仲間たちとは後ほど落ち合う約束をし、再びフリオニールはその場を後にする。
――いったい俺は、どうしてしまったのだろう。
 ひずみへと急ぐ道すがら、心に浮かんでいたのは、あの美しい男が兜を脱ぐ瞬間の姿ばかりだった。さっき出会ったばかりの人間にどうしてこんなにも心乱されるのか。
 甘い夢から目が覚めるよう、フリオニールはまだ熱いままの己が両頬に触れ、数度叩く。
 とても本人に告げることはできないけれど――異世界へたどり着いたばかりの夜、不意に襲ってきたモンスターたちと戦った後、心の昂りがなかなか収まらない時にはこっそり彼のことを思い、己を慰めたことがあった。しかし、今感じているのはそういったばつの悪さとは全然違う。
 あの見知らぬ恋人と出会った瞬間、フリオニールは再び、そしてものすごい速さでもって、はじめての恋に落ちた。
それはこの不確かで奇妙な世界においてはほとんどない、否定しようのない、確固たる事実だった。
 

2・見知らぬ、懐かしい恋人

 ああ、これは歯止めが効かない――セシルの脳裏にそんな言葉が浮かんだ頃にはもう手遅れだった。神から盗んだ炎を封じ込めたみたいな、フリオニールの燃える琥珀色の目を見つめると同じように感じているのが分かる。
 熱をはらんだ眼差しに高まる情欲を感じ、セシルは浅く、息をつく。
 遠い国を思わせる、浅黒い肌をした朴訥なこの青年――フリオニールとは、ついこの間出会ったばかりなのに、軽く唇を食む仕草も、お互いを求めてやまないように舌をからませるやり方も、初めてのはずなのにとても懐かしい。
 立ったまま口づけを繰り返すうち、不意に力が抜けてしまう。そのまま、二人して草の上に体を放り出した後も、何かを確かめるみたいにお互いに触れる事をやめられなかった。
「なあ、セシル……変なことだと思うかもしれないけど、」
 唇を合わせる間、途切れ途切れにフリオニールが何かを言おうとするが、セシルは柔らかく唇を触れさせ、言葉を遮る。彼が言わんとすることは、もう知っていた。
「大丈夫。同じこと、僕も思ってたから」
 そう言う合間にも高まる自らの劣情を感じ、セシルは小さく笑う。
 フリオニールが言いたいのは多分こう言うこと。
『僕たちがこういうことをするのは、多分初めてじゃない』。
 フリオニールと行動を共にするようになったのは、ついこの間の事だったのに。髪を梳る指も、熱い肌もすべて「おぼえている」。
 彼の無骨な手が、鎧下だけを身につけた自分の裸の胸に触れる。拒むことはせず、今度は異国の青年の背中に手を回しながら、彼との出会いがどんな風だったかセシルは思い出そうとしてみる。

――マーテリア神に召喚を受け、この世界に降り立って以来、どこまでも広がっているような、広大な砂漠を渡り、雪深い山脈を超えて、モグに連れられるまま、あてどのない旅を続けてきた。フリオニールと出会ったのは、丁度マリーティア宮殿に乗り込む前のことだったと思う。
 自らを反乱軍だと名乗る彼を初めて見た時、その言葉や表情、態度に何か秘密めいた匂いを感じた。それはもちろん、この世界での「反乱軍」の役割ゆえでもあったけれど、それ以上に彼自身に説明できない、ざらりとした「ひっかかり」を覚えた。
 饒舌ではないが、真っ直ぐでうそのつけない性分のフリオニールは誰から見ても好ましく、すぐに仲間に馴染んでいった。彼が仲間と談笑する姿を見ていると不意に、前にもこんなことがあったような気持ちに襲われた。そしてその言葉には表せない「ひっかかり」は、時に焦りや理由のない苛立ちとなり、心を苛む。
 ついさっきだって、今日の野営の準備を終えた後、夕日で燃えるように赤く染まる森へと一人入っていくフリオニールを見て、他の仲間ならそれほど気に止めないだろうに、気がついた時には追って森に入っていた。彼にやっと追いついたのは、マリーティア宮殿のある遥か山頂から続く瀑布を見上げる、森の奥の湖だった。
 東の空に浮かぶ満月が煌々と辺りを照らし始めた頃、湖のほとりに立つフリオニールを見つけた。「随分奥まで入っていくものだから、追いかけるのに骨が折れたよ」と声を掛けると、彼はこちらへと振り向き、すまなさそうな顔で小さく笑った。
「……セシル、もしかして心配して追いかけてきたのか」
「そうだね。一人で飛び出してくなんて、君らしくないから。何かあったの?」
 投げかけた問いにフリオニールは何やら言い澱む。何か言いづらいことでもあるのだろうか。
「ねえ、大丈夫?」
本当は、安心させようと軽く肩に手を掛けるつもりだった。セシルが伸ばした手指は、気がつけばフリオニールの頬へと伸びていく。
 その肌は、焼けた砂を思わせる暑さで。そうして、なんとなく彼が仲間達から離れた理由がわかった気がした。
「その……何だか分からないけど、気持ちが昂ぶるんだ。だから、一人になりたくて」
「そう、なんだ」
 セシルのもう片方の手も、自然に目の前に立つ彼の上気した頬に伸びていく。きっと月のせいだ。身体の熱を持て余した青年にそっと嘯いて口付けた。

 二人とも、飢えている。やさしい肌や頬を撫でていく夜風みたいな愛撫、そして熱い肉に。
 素肌の腰に落ちる、慈しみを感じる口づけは懐かしく、じりじりとした渇望が静かに満たされていくのをセシルは感じた。触れれば触れるほど、もっと近づきたくなる。息ができないくらいにぐちゃぐちゃに交わりたい。そんな風に思ってしまう。
「ねえ、フリオニール。本当に嫌じゃない?」
「嫌なんかじゃないさ、それにもう引っ込みが付かないのはお互い様だろ?」
 目の前に横たわる人に手を伸ばし、抱き寄せながらセシルは小さく微笑んだ。

 後ろから性器を捩じ込まれ、深く息をつくと涙がこぼれた。思わず身をよじれば、腰が逃げないよう、しっかりと無骨な手で掴まれる。奥までずっぽりと熱くかたいものが挿入ってくる。ゆっくりと揺さぶられ、思わず声を上げそうになる。
 自分に覆いかぶさる青年の荒い息遣いを感じる。もっと動いてもいいよ、と目配せした。その意味が分かったのか、突き上げる動きがだんだんと激しくなる。
 まぐわりながら『思い出す』のは、いつか彼と旅の途中、天幕の中で息を殺しながら口づけをした記憶。そして、今日のように仲間から離れ、森のなかで逢引きしたこと。こんなにも、その肌も、手も、体も懐かしいのに。ただ一つ分かるのは、そう感じていたのは「今」この時、この世界で彼と出会った自分ではないということだった。髪に落ちる口づけも、名前を呼ぶ声も目の前にいる自分のためではない。そうわかっていてもなお、求められるのは心地の良いことだった。
 粘膜を擦られるたび、訪れる過ぎた快楽に膝が震える。繰り返される抽送にもう、ほとんど気をやりそうになる。腰を掴む手に込められた力と背中に落ちる汗、そして相手の何かを堪えるような息遣いを感じ、このままいってよ、とセシルも荒い吐息混じりに呟く。しかし、帰ってきたのはいやだ、という短い否認の言葉で。
「その……顔を見ながら、したいんだ」
 続いた「お前と」という言葉に、ぐらりと視界が揺らぐ心地がした。気持ちを取り繕い、隠し立てすることなく、フリオニールはいつだって真っすぐと言葉を投げてくる。こういうことを言うとき、彼の耳の縁が赤くなるのを好ましく思っていた。いつかの自分が。それは遠い過去の記憶と呼ぶにはあまりにはっきりとしたもので、けれど、手が届きそうなのに届かない、蜃気楼のようだった。
「いいよ、それなら――」
 互いに示し合わせ、姿勢を変えて向き合えば、腕を伸ばしてより体を近づける。
 おぼろげな記憶を辿っても、逃げ水のように遠ざかるばかりならば。いっそその正体など確かめることなく、求めるままに、求められるままに貪りあうほうがいい。熱の行き場を求めて、また、目の前にいる青年が夢まぼろしではないのを確かめるために、セシルはフリオニールの背に手を回す。

 先ほどまで雲一つなかった夜空には昏い雲が垂れ込め、煌々と輝いていた月を隠してしまう。最初はゆっくりと、それから段々に勢いを増して降り始めた温いにわか雨は、裸の肩を包むヴェールみたいにも思えた。もう、長いことパーティから離れてしまっている。早く着衣を整えて、野営地に戻らなくてはと思うのに、セシルは、もう一歩も動ける気がしなかった。隣にいるフリオニールも、言葉にこそ出さないが同じような様子だった。
「もう、戻らないとね」
 言葉とは裏腹に、手慰みに相手の手を取ってそのごつごつとした形を確かめたり、まだ少し荒い息の音を聞いている。それだけでどうしてこんなに安らぐのか。
「ああ、そうだよな――」
 同意の言葉を発したはずのフリオニールも、緩慢にセシルの頬や髪に触れたりするばかりで、そこから立ち上がろうとはしない。
 このまま見知らぬ、懐かしい人と優しい檻のような雨の中に二人閉ざされ、じっとしていることができたら。それこそ、すぐに立ち消えるかげろうのような望みだと十分に分かっているけれど。
 せめて、この通り雨が上がるまではこうしていようか。そう言いかけた時、隣に座るフリオニールも何かを言おうとしているのが目に留まったもので、それがなんだかおかしくって。どうしていいかと困っているのか、少しはにかんでいるようにも見える表情をした彼の頬を包み、セシルはこつん、と額を合わせて、その瞳を覗き込む。一体どうしたことだろうね、この世界も、僕たちも。その問いに答えるすべを持たないだろうフリオニールは、やっぱり少し困惑したように微笑むだけだった。

3・どうしようもない俺たちの

「やっぱりここにいたのか、セシル」
 夜を迎え、暗くなった空の雲間を滑るように駆けていく飛空艇の甲板の上、今はもうすっかり見慣れた、暗黒騎士の鎧をまとったセシル・ハーヴィが立っているのをフリオニールはその目に認め、軽く手を振った。
 居住区に置いてきたのか、素顔を覆い隠す兜を彼は身に着けてはいなかった。細い三日月の光が、呼び声に振り向いたセシルの横顔やふわふわとした風に揺れるミルク色の髪を柔らかく照らす。
「ふふ、君も風にあたりに来たの? それとも、」
 セシルはフリオニールの言葉を待つことなく向き直り、秘密めいて微笑みながら、こちらへと手を伸ばす。毎度のことだけれど、少し照れながらフリオニールはその手を勢いよく掴めば、なかば飛び込むようにしてセシルを抱き寄せ、熱く口付けをする。
 共に旅する仲間たちは、次の大陸へ移動する間、飛空艇の中でおのおの寛いだ時間を過ごしており、誰も暗い夜の甲板になど出てこない。示し合わせたわけではないが、何となく二人がこのところ落ち合うのはこの場所が多かった。
 冷たい雨が降り続く廃屋敷や、天まで届きそうな高さのカプタエストの塔。そしてセシルの仇敵である魔人・ゴルベーザと対峙し、ついに姿を現した「リターナー」の盟主・エドガーと合流を果たした蜃気楼都市ニーベウス。マリーティア宮殿が位置していた大陸から、全く雰囲気の異なるいくつかの地域を旅するうち、いずれ元の世界に戻るという目的を忘れたことは一度もなかったけれど、二人の関係もより親密なものへと変わっていった。
 そして、出会ったばかりの頃、半ば行きずりで体を重ねたことに後悔はなかったが、フリオニール自身はとても反省していた――つもりだった。
――少し、昨日の事について話を……。
 しかし、あの出来事の翌日、その気持ちを告げようとしたら、セシルはあろうことか、自らの人差し指をフリオニールの唇に押し当て、そんなに気にしなくてもいいよ、といたずらっぽく微笑んだのだ。緊張しながら仲間の目を盗み、なんとか一言を絞り出したものだから、やや拍子抜けしてしまった。
――君も僕も楽しんだのだし、それでおしまい。結構じゃないか。それともまた今度、続きでもしてみる?
――? ええと、その……。
 さらに続いた、思ってもみなかったセリフにフリオニールが目を白黒させていると、セシルが耳元で囁く。
――君の記憶の中にある「僕」とはもしかすると違っていて、幻滅したかもしれないけど、嬉しかったんだ。君とあの日、一緒に過ごせて。初めて会った日から、気になっていたから。
 耳に届いたセシルのその言葉が、あまりにフリオニールの気持ちそのままだったから、もうそれ以上ものを言うことができなかった。
あの晩のセシルが見ていたのは、きっと目の前のフリオニール自身ではなかった。それでも出会った瞬間、恋に落ちた青年とひと時だけでも時間を過ごせて嬉しい気持ちに嘘はなかった。
 そうして耳まで真っ赤になってしまい、困ったように目を瞑ったフリオニールは、唯一できる意思表示として、やっとの気持ちでセシルに手を差し出した。セシルはその手を拒まなかった。それがこの世界における、二人の関係のはじまりだった。
その後、共に旅を続けるほどに、この世界を訪れてすぐ頭に浮かんだ白い鎧姿のセシルと、目の前にいる黒い鎧を身に着けた彼は、同じ顔はしていても別の人間だということが、その雰囲気や立ち振る舞いからはっきりと分かってきた。
あの「夢」の中のセシルは、騎士らしく高潔な印象が強かったけれど、この世界で出会った彼はむしろ軍属らしい、迷いのない判断や隙のない身のこなしがよく目についた。
それでも心根の優しい部分やふとした瞬間に抜けてみえるところなどの印象は変わらなかったし、実際に行動を共にする中で、例えばセシルが年若い面々に対しても一人の自立した人間として真摯に接する姿などを見て、もっと好感を抱く部分もあった。
そういえば、と白く輝く鎧を身に着けたことはないのか一度セシルに問うたこともあるが、セシルは複雑そうな面持ちで首を横に振るだけだった。
――僕は……多分、今までもこれからも暗黒騎士であり続けるんだと思う。はっきりとした記憶はないけれど、大切な人たちを守るため、そう決めたことだけは覚えているんだ。
 セシル本人は、その姿や暗黒剣の力を「光」とは無縁のものだと信じているようだったが、彼の「守るべきものを守るために戦う」という姿勢は、精霊モグが口癖のように語る「光の意志」の現れなのではないかと内心フリオニールは感じている。
「あれから、記憶は少し戻ったか?」
 いつものように口付けた後、二人で甲板のデッキに腰を下ろし、並んで月を眺めながら、隣の美しい姿をしたその人に
問うてみる。
「ううん、特に新しい記憶は戻ってこないみたいだ。でも、この間ティーダと少し話した時にも思ったけど――きっと、自分で思い出すことに意味があるんだろうね」
 セシルが口にしたティーダというのは、フリオニールよりも一つ年下の少年の名で、パーティでは素早さと身のこなしの軽さを生かした戦い方で活躍していた。明るく朗らかな性格でセシルやフリオニールによく話しかけてくれる、気のいいやつだ。
「元の世界のこと、やっぱり思い出したいか、って言ってたよな。それがいい記憶であれ、悪い記憶であれ、って。いつも明るいあいつにしては、珍しく弱気で心配だったな……俺はあまり記憶が抜け落ちている自覚はないけど、やっぱり何かを忘れているっていうのは、落ち着かないものだろ」
 膝を抱え、少し寂しげに微笑むセシルの頬にフリオニールはそっと手を遣る。ゴルベーザと対峙した後から、目に見えて考え込んでいるような時間が増えた彼の恋人は、冷たい手をフリオニールのそれに重ね、静かに口づける。
「君の家族や仲間も、もしこの世界に来ているなら早く会えるといいね。気にしていたよね、彼らの無事を」
 セシルの言葉にフリオニールは声なく頷く。もうかれこれ三つの大陸を旅してきたけれど、同じ世界の仲間がいるという情報は得られないままだった。
 狩りが得意で、時々その思い切りの良さで周囲を驚かせることもあるマリア。動物たちを慈しみ、彼らからも深く愛される心優しい弟・ガイ。確かな人を見る目を持った、しっかり者のレイラ。彼らを思うと、たくさんの仲間に囲まれていても、どうしようもない寂しさや言葉にできない苛立ちを感じることがある。この世界を統べるマーテリア神は一体どんなつもりで自分を呼びつけ、戦わせるのかと。
 そんな時、まるで見計らったようにセシルはフリオニールのそばへ来て「きっと大丈夫」と手を握ってくれる。あるいはその腕で抱きとめて宥めたり、口づけたり。時には二人でどうしようもない欲望を満たし合うこともある。
 そうして二人きりで時間を過ごすたび、きっとセシルも同じようにやりきれなかったり、怒りを覚えたりする瞬間があるのだと感じる様になった。
素直に気持ちを表すことをあまり躊躇わないフリオニールと違い、セシルはいつも理性的だけれど、その身体の奥にはたしかに、二柱の神に理不尽に振り回されることへの苛立ちや、このわけの分からない世界への戸惑いがある。作りものめいて美しいセシルの中に、そういった人間らしい感情があることを実感すると、どうしようもなくフリオニールはほっとするし、その時だけは家族と離れて旅をする寂しさを忘れられる気がした。
「少し冷えてきたね、中に入ろうか」
 セシルはフリオニールの肩を合図するように叩いた後、おもむろに立ち上がる。確かに飛空艇の甲板に出てからややしばらく時間が過ぎ、身体は冷え始めてきた。
フリオニールも同じく立ち上がり、早々と飛空艇船内へと戻ろうとした時、なぜかセシルは立ち止まる。それから、甘えたがりの子どもがするみたいに、彼はフリオニールの手を後ろから軽く引いた。
「――そうだ、この後、少し時間はある?」
 最近ようやく、こうやって名残惜し気に彼が呼び止める時、それはもっと話がしたいという意味ではないことに「そういった」機微に疎いフリオニールも気づき始めてきた。
「ち、厨房の当番はさっき終わったし、問題ない……と思う」
「いいね、そうしたら倉庫の備品のチェックでも手伝ってくれると嬉しいな」
 そうして何気ない会話をした後、フリオニールの背中にセシルが愛おし気にぴっとりと寄り添うものだから、急に頬が熱くなる。心臓は全速力で走った後みたいに早鐘を打っている。
正面から顔を見られなくてよかった。とてもじゃないけれど、こんなにも動揺している様子をしっかりと見られたら、いたたまれなくなるどころの話じゃない。

 飛空艇の居住区内、寝室など人が集まる場所から遠く離れた場所に位置するその倉庫は、ドアの隙間から廊下の常夜灯の光が差し込む以外には薄暗く、こうやって人目を避けて逢瀬を重ねるにはもってこいの環境だった。また、倉庫は翼に近いこともあり、そこまで物音を立てる事に神経質にならなくて済むのも気が楽だ。
 夜半に近づき、操舵を担当する以外の仲間は船室で休んでいるようだったし、宵っ張りの面々も談話室(ラウンジ)にて葡萄酒を片手にポーカーをしたり、互いの世界についての情報交換をしたりして楽しんでいるようで、不意に誰かが倉庫を訪れる危険は殆どなかった。
 とはいえ、勘の良い仲間もいる。元の世界では忍の国を統べていたという若き王子・エッジと先ほどラウンジですれ違った時、何やらセシルは声をかけられたようだったし、気を付けるに越したことはないだろう。
「いたいけなお坊ちゃんにちょっかいかけるのはあんまり感心しないぜ、だって。ひどいなあ、ただこうやって好き合っているだけなのにね」
 鎧下だけ身に着け、抱き合ってする口付けの合間に不満げにこぼすセシルを見て、フリオニールは内心エッジに同意した。どんな仲間にも優しく寄り添い、一見堅物そうに見えるセシルが、こんな風に羽目を外すところがあるなんて少し意外だ。ともするとフリオニールがただただ翻弄されているようにも見えるのも理解はできる。
「……っ、きっと、同じ世界の仲間として心配してるのさ、」
 入り口のドアからは死角となる高い棚にも半ばたれながら、貪るようにお互いの唇を奪い合う。先ほど甲板で触れた時よりも、昂りゆえに自分たちの体温がずっと高くなっている事に触れた肌越しに感じる。それから息遣いもどんどん荒くなってきて、何かしゃべるのも少しおっくうだった。
「ふふっ……そうかな。僕ってそんなに真面目に見えるのかな。ねえ、フリオニール、っ、君はがっかりした?」
 セシルの温まった手が、フリオニールの肩や背中を撫でさする。また、そうする間にもフリオニールの両脚の間に挟まる形になったセシルの脚が誘うように動き、すでに硬度を持ち始めた自分の下腹部をもどかしく刺激する。
 『がっかりした?』というセシルの言葉が何に対してのものなのかは明白だった。お互いが持つ、あやふやな記憶の中の自分たちと比べて、という意味だ。清楚で美しく、絵物語の中の人物のような、白い鎧をまとったセシル。確かに彼には否定しようのない魅力がある。
「最初に意識したきっかけはもちろん、あの『記憶』だし、確かに思っていたのとは全然違ったけど、っ」
 ふぅん、と少し不満げな相槌一つ打てば、忍耐を試すように、美しい恋人の白い手がフリオニールの中心へと伸びてくる。セシルは微笑みながら挑発的にこちらの目を覗き込み、それから鎧下の布越しにじれったくなるほどゆっくりと、頭をもたげはじめた性器の形をなぞるように触れていく。
 段々に理性を保てなくなってきている己を感じながら、けれどこれだけはちゃんと伝えなくては、とフリオニールは口を開く。
「でも……今のセシルがきっと俺は好きだよ。誰よりも真剣で、持てる力で仲間を守ろうといつも必死で、俺が悩んでいる時、何も言わずそばにいてくれる、そんなセシルが」
 それが予想外の言葉だったのか、目の前に立つセシルの瞳が驚きに見開かれる。その様子があんまり愛しくて、フリオニールは恋人のつややかな銀色の髪を一掬い指に取れば、すん、と匂いを嗅いでから短く口付ける。
 やや考え込むような間があった後、目の前のセシルからも静かに言葉が返ってくる。
「僕も、きっとそうだ。それがどんなに素敵でも、触れられない君より、目の前で悩んだり、恥ずかしがったり、たまに怒ったりする君のほうがずっといい」
 互いの答えを確かめるように、二人は手を伸ばし、指を絡ませながら、瞳を覗き込む。わずかに設けられた明り取りの窓から差し込む月明かりがセシルの紫色の瞳をきらきらと照らすものだから、フリオニールは思わず吸い込まれるように見入ってしまう。
それから二人で額を合わせ、昂ってはいるけれど穏やかな気持ちでもう一度ゆっくりと唇を合わせる。
その時、出会う前からずっと頭の片隅にあった蜃気楼のような記憶がふっと遠ざかっていく気がした。
白い鎧を身に纏った、輝くような美しさのセシルと、残された日々に怯えながらも彼を求めてやまない、いつかの自分。多分だけれど、今、やっと本当の意味でフリオニールは目の前のセシルにもう一度恋をした。

挿入はいってきてよ、フリオニール」
 互いの唇や手でさんざ熱を高めあった後、セシルは上体を床に付け、挑発するように後ろに尻を付き出す。それから己が手でもってその白くやわらかな肉を掴み、よくよくそこが見えるよう、広げてみせる。
フリオニールは一度、思わず息を飲んだのち、硬く張りつめた性器を見るからにしっとりとして具合のよさそうなセシルの尻たぶに擦りつけ、嘆息した。また、組み敷いた恋人が挿入への期待に息を殺しながらわずかに震えるのを感じ、たまらない気持ちになりながら、陰った色をした後孔へと自らのそれを押し当てていく。
さほどと抵抗なく受け入れられたそこはとても温かで、油断していると頭が真っ白になって、すぐ達してしまいそうなよい心地だった。なるべくならゆっくりと時間をかけて交わりたいのに。動かないでいても、セシルの内側の肉がざわざわと性器を包み込み、締め付けるものだから、少し動くにも気を張っていなければならなかった。
そんな様子を知ってか知らずか、セシルはこちらへと肩越しに振り返り、軽く潤んだ瞳をこちらに向けながら、余裕なさげに微笑む。その表情にますます恋しさが高まり、フリオニールはどうしようもない気持ちになる。
「――ごめん、本当にすまない、セシル、もう我慢できそうになくって、」
 そうして相手の返事を待つこともできず、フリオニールは己の本能が突き動かすままに浅く、深く、緩急をつけながら抽送を繰り返す。
「ふふ、別にあやまらなくっていいのに。優しいんだね、君は。すごくいいよ、気持ちいい」
 少し苦し気に、とぎれとぎれに話すセシルの声に嘘はなさそうだった。その証拠に性器を包み込む、熱したバターみたいにとろとろとした内側の肉も、きゅうきゅうと締め付けを強くするばかりだ。抜き差しを繰り返すうち、うっすらとした古傷が浮かぶセシルの背中がぴくりと震えるので、宥めるようにフリオニールは口づけてやる。
と、その時だった。
「っ、フリオニール、もう、僕、だめ」
 特にそこが弱い場所だったのかもしれない。落とした口付けがきっかけになったように、普段のしっかりとした口ぶりからはかけ離れた、たどたどしい言葉と共にセシルはその真白い背中をぴん、と逸らせ、射精もせずに達した。
 それから寸分置かず、フリオニールにもその瞬間が訪れた。必死にこらえていたものが溢れ、ぬるい液体がセシルの内側に注がれていく。
 それからしばらく、フリオニールとセシルのどちらも心と身体を満たす満足感と疲労で、重なった姿勢のまま、少しも動けなかった。
やがて肩で息をしていたのが、少しずつ静かな呼吸になった頃、ようやく身体を離せば、二人で床に寝転ぶ。そして隣で天井を仰ぎながら、まだ熱いままの手を恋人の手を握った。
「――ねえ、元の世界に好きな人はいた?」
「どうだったんだろうな、覚えてないよ」
「あ、今ごまかした。知ってる? 君ってそういう時少し声が上ずるんだよ」
「~~! そういうセシルこそ、どうだったんだ?」
「秘密。でも、今は君がどうしようもなく好きなんだ、信じてよ」
 お互いの顔を見る余裕もないまま、手だけで触れあったまま、緩慢に言葉を交わし、息を整える。そうする間にも身体にこもった熱が徐々に逃げていく。
 どんな記憶がこれから先、セシルに蘇るのか、あるいはどんな運命がフリオニール自身に降りかかるのか、まだこのおかしな世界においては分からないことだらけだけれど。
 それでもきっと、せめてその時が来たなら、出会ったことを後悔せず、彼と笑って別れようとフリオニールは思った。
「信じる。信じるよ、セシル」
 ゆっくりと身体を動かし、フリオニールはセシルの方へと向き直る。そして、少し冷えてきた裸の肌を愛しい人に沿わせつつ、まだ遠くあって欲しい別れの日への誓いを込め、丸く形のよいその額に、今夜、何度目かもはや分からない口付けを落とした。

4・砕け散ったものはなんだったのか

 次元の迷宮の最深部にて精霊モグを侵食していた「黒き意志」をやっとの思いで打ち倒したのもつかの間、マーテリア神の命により「幻想の大地」のいしずえである「クリスタルコア」を急ぎ訪れたセシルたちを待っていたのは、おそろしいものだった。
 どこか見覚えのある雰囲気をしたクリスタルルームに辿り着いた瞬間、目の前に現れたのは、スコールやバッツ、そしてティナやエドガーの仇敵たるスピリタス神の手駒。それから、クリスタルの輝きを吸い上げるように、コアにまとわりついている光輝く竜の姿をした「次元喰い」の幼体。
「神の遊戯に付き合うつもりはない。このクリスタルが砕かれれば、私たちは自由だ」
 一時、自分たちモーグリ一行と行動を共にしていたこともあるヴェイン・ソリドールは光を失いつつあるクリスタルを目の前にそう冷徹に言い放ち、こちらの行く手を阻んでくる。
 昏く輝くクリスタルには痛々しく亀裂が走っている。もはや寸分の猶予もない。
「待ってくれ! もう……クリスタルがもたない!」
「突破するぞ!」
 セシルの急いた声を耳にするやいなや、フリオニールが皆に発破をかける。そして言葉巧みに祖国を奪い取った男にヴァンが「邪魔するなよ!」と様々な感情の込められた叫びをぶつけながら、歩みを進める。
 どうにか間に合ってほしい。希望を失うわけにはいかない。
祈るような気持ちで足を前に動かし、次元喰いをクリスタルから引きはがそうとしたその時、強い衝撃がこの身を襲い、セシルたちはすんでのところで吹き飛ばされてしまう。おそらくヴェインに阻まれたのだ。
「くっ、」
 痛みなどなんということはない。それなのに、苦悶の声を上げてしまったのはきっと、もう手遅れなのがわかったから。
「クリスタルコアにひびがクポ……!!」
 ふわふわと漂う、今は「黒き意志」から解放されたモグが痛切な声を上げる。そしてまばゆい光が溢れて全てが終わった。
あたりにはこなごなになったクリスタルのかけらが舞う。
 その瞬間、セシルは己が心も砕けたコアとおなじように、ばらばらになっていくのを感じた。以前にもこのような絶望を感じたことがある。それは一体、いつ如何なる時の出来事なのだろう。
 目の前の出来事にもう一歩も動けない自分と、それを遠くで他人事のように冷静に見つめる自分とが確かに存在していた。
「そんな……これでは、この世界はどうなってしまうんだ……」
 独りでに嘆きの声が溢れた瞬間、絶望に身を委ねてしまえば、もうそれ以上なにも考えなくて済む、と誰かが囁いた気がした。聖騎士だと讃えられようが、いざ城を襲い来る圧倒的な脅威の前には無力だった。何も感じないのがいい、絶望は安寧だ。
 昏い思考の淵に沈みそうになった時、顔を上げさせたのは短くはないこの旅路で時を共に過ごした青年の言葉だった。
「下を向いていたら、やられるぞ! 今はあいつと戦うんだ!」
 まるで己に言い聞かすように、フリオニールはかぶりを降り、それからこちらへと襲い来る寸前の次元喰いを睨みつけた。
 遠く蜃気楼のような、ここではない世界の記憶で、なぜセシルが彼を好いていたのか、そして今のセシルがどうして彼に惹かれたのか、はっきりと理解した。
 どんなに絶望に打ちひしがれそうな時でも、彼は諦めない。無理やりにでも周りの手を引き、顔を上げさせる。それがフリオニールという人間だ。「いつか」のセシルも、彼が打ち明けたまっすぐすぎる、のばらの夢に勇気をもらった。
だから、マリーティア宮殿のある大陸で「のばら」を手にした彼に出会った時、初めて会ったとはとても思えなかったのだろう。
 頬を打つような、叱咤する言葉に、今、ここにいるセシルも漸く正気を取り戻し、立ち上がり、倒すべき敵を見据えた。

 次元喰いを辛くも打ち倒した後も、光の大地の崩壊は止まらなかった。崩落に巻き込まれないよう、急ぎ飛空艇に乗り、闇の世界へと向かったが、マーテリア神の想像力により作られた特別製の船であっても、激しい乱気流に耐え抜くことはできない。
墜落するすんでのところでモグが持てる力を使い、自分たちを地上へと転送してくれたが、肝心のモグ自身はセシルたちが目を覚ましても、たとえ癒しの呪文を付与しても、眠ったままでありつづけた。
 これまで導いてくれた精霊がいないまま、荒涼とした大地をこれからは自分たちで考え、歩いていかねばならない。輝きを取り込むことで、もう一度クリスタルコアを修復できるかもしれないという曖昧な希望だけをよすがに。
 セシルたちを率いてくれるリーダーは、輝きを手にした時、「失われたものが戻ってきたような気がする」と話していたけれど、それは記憶なのだろうか。だとすれば、それを取り戻した時、あるいはいつか赤い翼を駆り、こちらを襲ってきた憎き仇敵・ゴルベーザが告げたように「光」をその手にした時、セシルには何が起きるのだろう。
 でもきっと、この先の見えない不毛の大地でも、何が待つのか分からない旅路でも。セシルが俯き、歩みを止めることがあれば、クリスタルルームでのあの瞬間のように、フリオニールが手を差し伸べてくれる。そして、力強くこちらの手を掴み、前へと引いてくれる。彼の横に立つと、不思議とそう信じられた。
 闇の世界に辿り着き、今は少し不安げな表情を浮かべる恋人の瞳の色をセシルは眺めてみる。
 燃えるような、のばらにも似た鮮やかな瞳。
 そのうち、彼もセシルの目線に気づいたのか、少しはにかんだように小さく微笑む。愛おしい青年に口付ける代わり、セシルはこっそりとフリオニールの手を取り、強く握った。