夢の岸辺に

クローバーの茂る低い丘に昼食後の眠たい体を横たえると、簡素な旅行着に身を包んだフリオニールは遠く湖の対岸に広がるガテアの町を望んだ。先の戦が終わってのち、いち早く賑わいを取り戻した王都フィン、そして今しがた訪れてきたばかりの、建物と言える物は何一つない所から再建を始めたガテアでは、名匠トブール老の弟子たちが手がけた農耕用具はよく売れた。

 フィンやそれまでの旅で訪れた村や町の復興が一段落着いた頃からフリオニールは鍛冶工房で修行も兼ねた下働きをするようになった。ある程度の在庫が出来ると、まだ店では腕の未熟な彼が今日のように馬車を駈り、市へと品を卸しに行くのだ。身を守る為の槍や剣から、土を耕すくわや鋤へ。人々がその腕に抱える物を変えていくのを目の当たりにしてようやく、最近あの忌まわしき日々は終わったのだと心から感じ始めていた。

 地獄を越えて蘇ったパラメキア皇帝との戦いに決着が着いた後、身を寄せていたアルテアの町がその形を取り戻していくのを目にしながら、どこか安堵する事が出来ないまま日々を暮らしていた。悪意を持って世界を戦火に包もうとするパラメキアのような勢力は今はどこにもなく、皇帝も二度と蘇らない。そう頭では理解しているのに。それでも夜、瞼を閉じ、眠りに落ちれば、何度も町や村が焼かれる夢を見た。

 限界が来ていたのかもしれない。地獄の底に現れた宮殿・パンデモニウムから生還して一年が過ぎたある晩、ついにフリオニールは高熱を出し、倒れた。

『もうしばらくは根詰めるの、禁止! ここずっとアルテアに篭りきりだったじゃない、たまには息抜きもしなきゃ』

 今回の短い旅に出る前、臥せった時も献身的に看病してくれた妹のマリアが言ったように、確かにこの所フリオニールは覚え始めたばかりの仕事に打ち込み気味だった。それでもこうやって暇を貰うまでは、自分の許容量を超えて毎日の仕事や白魔法の勉強にがむしゃらに取り組んでいた事にも気づかず、「誰かの役に立ちたい」と前向きにも聞こえる、その実漠然とした願いにしがみつき、向き合うべき事実から目を逸らしつづけてきた。

「……笑うだろうな、全然進歩が見られないって、」

 途端に口を衝いていくつかの名前が出そうになり、フリオニールは口元を押えた。

 伏せた瞼の裏に浮かぶのは先の戦いの中で失った者達の顔で。殆どの仲間とは死に別れた。あんな事でもなければ会うことの叶わなかった人たちばかりだったけれど、出来れば違う出会い方をしたかった――そうしたら違う結末を迎えられたかもしれない――と未だに思い続けている。

 あの日々を生き抜く事の出来た数少ない仲間であり、大切な家族でもある義兄レオンハルトも自分たちの元を去っていった。もう何もかもが始まる前には戻れないのは分かっていても彼らに思いを馳せずにはいられなかった。皆、本当に善良な人々だった。あの襲撃の夜に全てを喪い、力を渇望した結果、帝国に下った兄だって。

――もう養父さんや養母さんは帰らない、ヨーゼフ、リチャード、シド、そしてミンウ。沢山の人が死んだ。レオンハルトは今どうしているだろう。

 一人で何かを抱え込んだ末、むちゃくちゃなやり方をして、周りに心配をかける。それはあまり懸命な遣り方ではないよ、と言ったのは彼らのうちの誰だったろう。確かに仕事に打ち込めば、白魔法がもっと上手くなれば誰かの役に立てるかもしれない。だけれど、そこに覆らない厳然たる事実があるのを見ないふりをしてきたのだとフリオニールは今思う。

 多分、気が付くのが怖かったのだ。何をしようと彼らが帰ってくるわけではないという事に。

 ガデアを回った後、物資搬送用の定期連絡艇を利用し、空路で港町ポフトを目指す。レイラたち海賊一味が先頭に立ち、再興を行ったポフトは、交易がいち早く再開したこともあり、以前立ち寄った際には竜巻襲撃前の賑わいを取り戻しつつあった。
シドの弟子に「借りて」いた飛空艇を返して以来、久しく乗っていなかったわりには快適に過ごせている。初めて乗った時には少し機体が揺れるだけで生きた心地がまるでしなかったというのに。今は船室が揺れたくらいでは気にならなくなっていた。人は変わっていくものだよな、とフリオニールは独りごちる。
 今、改めて振り返ると、反乱軍として過ごした旅の中では口に出来ない思いや言葉ばかりが積み重なっていったように思う。思い出す度に痛みが伴い、言葉に出す事もためらう記憶。レオンハルトの事もそうだった。

『でも、生きてさえいればまた会えるって、あの頃は思い続けてきたじゃない』
 誰に聞いても彼の行方がとんと行方が掴めない事を嘆くフリオニールに、少しだけ寂しそうな顔をして妹はそう告げた。本当は血を分けたマリアが一番辛かったのに。

だからこそ彼女の言うとおり、歩みを進めるほどに悲しみと拭いがたい疲労が増していく旅路の中、各地の惨状を目の当たりにし、どんなに絶望的な気分になったとしても、レオンハルトと再会する願いだけは手放さなかった。だからこそ叶った。ならばもう少しくらい、平穏の中でその人を待ち続ける事くらいがなんだと言うのだーー。
ちょうどその時、外のデッキから聞こえてきたある噂話に、フリオニールは居てもたってもいられず、船室を飛び出した。
「そういえば聞いたかい、近頃『黒い悪鬼』が出るってウワサ」
「ああ聞いたとも、ありゃあダークナイトの亡霊だって話だぜ。酒場でしこたま呑んでた船乗りが最初に見たって言い出した時には誰も信じなかったけど、近頃じゃ随分目撃されてるらしいじゃないか」
甲板に座り、パイプをふかす商人らしき二人を見つければ、「その話、どこで聞いたんだ。詳しく教えてくれないか」と詰め寄る。その勢いに商人たちは少々たじろいだ様子だったが、そんな大した話じゃないが、という前置きと共に噂について詳しく教えてくれた。
−−鎧は宵闇の如く昏く、また冷たい輝きを放つ。顔貌を隠す兜にはまがまがしい悪魔の意匠が施されており、目にしたものを怯ませる。全身から立ち上る負の闘気で、その姿は半ばし蜃気楼のように揺らいでいた。足どりはおぼつかなく、傷を負っているようにも見えた。どこに向かうともなく、街の中を彷徨う姿から誰ともなく『ダークナイトの亡霊』や『黒い悪鬼』と呼び始めた。
うっかり目の前に飛び出した愚か者がいたが、幸運なことに一瞥を受けたのみで、特に危害を加えられることはなかった。それから今に至るまで、港町・ポフトはその噂でもちきりだという。
「レオンハルト……」
 戦乱を乗り越えた彼が深手を負いながら、うかつに人前に姿を現すとは思えなかったが、兄でなくとも帝国の残党の可能性もある。商人たちに礼をし、ポフトで仕事を終えた後、街の様子を見なければならない。フリオニールは小さく頷く。

 無事、飛空艇での空の旅を終え、海沿いの市場にたどり着くと、そこには活気に満ちていた。新鮮な魚を売り込む商人や笑顔で挨拶を交わす人々の賑やかな声が響き、屋台からは食欲をそそる香りが漂う。少し前は帝国との戦いの影響によりわずかな品が並ぶだけだったが、今では遠い南方から届いた香辛料など珍しい品も増えてきた。
金物商に頼まれていた銛や調理用品などを受け渡し、身軽になったところで街を散策しようと思った時、聞き覚えのある張りのある声で背後から呼び止められる。
「ついに海賊になってくれる気になったのかい? 待ちわびたよ、フリオニール」
「そのつもりは無かったんだが……久しぶりだな、レイラ!」
振り向けば、街の復興に尽力したことがきっかけで町の顔役に押し上げられてしまった、かつての仲間がそこに立っていた。ポフトは元より商業都市としての側面が強く、商工ギルドによる自治が盛んだったが、竜巻復興を機にこれまでも治安維持には一役買っていたレイラたち義賊が正式に街の防衛を担うことになったのだ。もちろん、反乱軍での活躍とヒルダ王女の進言が背景にあったようだが。
「市場の賑やかさには目を見張ったよ。お前たち海賊の手助けのおかげだな」
「ふふ、勿体ない褒め言葉、ありがとうよ。あんたときたらますます男っぷりが良くなったんじゃないか、いつまでもあたいを待たせないでほしいよ」
冗談めかした口調で語るレイラはフリオニールの腕を取り、おもむろに酒場の方向へ連れて行こうとする。
「⁉︎ おい、レイラ、まだずいぶん日が高いじゃないか。酒を飲むのは後に……」
「港町ポフトじゃ、船が荷を下ろし終わったらもう1日は終わりだよ。あんたも仕事を終わらせたみたいだし、良い店には早く行かなきゃとっておきのメシにはありつけないんだからっ!」
 それに、と付け加えられた一言にますますフリオニールは反論できなくなる。
ーーおおかた『ダークナイトの亡霊』が気になってるんだろ、あたい抜きで探そうなんて見過ごせないね!
 半ば強引に店へと連行されながらも、レイラなりの気遣いを感じる懐かしい口調に思わず口元がほころんだ。