困難を超え、星へ

Per Aspera Ad Astra

 引き返すべきだと思いながらもついに、ここまで来てしまった。敵の影を追って入った『ひずみ』の中、そこにはもうすっかり見慣れた光景が広がっている。

 青い惑星を遠く望む、音のない常夜の渓谷。遠くに見える唯一の建造物――どんな目的で施設が作られたのか、また、その背景にあるテクノロジーについては全く伺い知る事は出来ないが、自分の知る技術でそれを作ろうとしたなら、気の遠くなるほどの時間と労力が必要とされるだろう事だけは分かる――のほかには、生きたものや文明の気配は何もない、死んだ大地だった。

 それでもセシルにはこの荒涼とした場所が妙に懐かしく感じられる瞬間が何度もあった。戦いを重ねるうち、最初はぼんやりと覚えるだけだったその既視感は、いつしか断片的なビジョン、そして一つの連続した記憶となった。何かのタラップを降り、この場所に降り立つ。そして遠くに頼りなく浮かぶ、自分達の星を眺めた。
ここは月。宿命に導かれ、何かに決着をつけるため、星をも渡る船に乗って訪れた。でもそれだけではない、妙に胸に響く風景だった。

 また、セシルが郷愁を憶えているものはそれだけではなかった。例えば今迫り来る人影であったりとか。
背後に独特の威圧感が迫り、覚悟を決めて振り向けば、予想通りの人間が立っていた。くろがねの鎧に身を包んだ魔人。
『やはりお前か、ゴルベーザ』
 闘気に呑まれないよう、睨みつけるよう見据えるが、頭部全体を覆ったマスクの下の表情はいつもと同じく伺えない。
『何が目的で、手下まで使って呼び出した? 答えろ。さもなくば』
 夕方、セシルやその仲間達が敵の一団に襲われた時、闘いの最中、一匹だけ妙な動きをしているイミテーションを発見した。こちらを襲おうとせず、攻撃を仕掛ければ何とかすり抜けていく。あの自分達を模した、忌々しい紛い物の兵隊たちときたら、セシルたち生身の人間を見れば、それこそ目の仇にしてるみたいにがむしゃらに突っ込んでくるのに。しかも戦おうとしないそいつの姿はこの世界に呼ばれた敵や仲間の誰とも違う、けれど見覚えのある姿をしていて。それを追いかけるうちに、味方から離れるように誘導されているのには気づいたけれど、何となくその敵を捨て置く事が出来なかった。
 そして、それがこの有様だ。わざわざ自分から嵌められにいくとはどういう事だろう。しかも仲間を放って。
『私もお前がのこのこ現れるとは思わなんだ。そうか、そういえばあれはお前の親友だったな、セシル』
笑いの滲む声がした。それより『あれ』とは、まさかイミテーション、いやその原型となった人間の事だろうか。ここにはいない人への思いまで利用され、まんまとしてやられたのが許せず、苛立ちに歯噛みする。
『お前に呼ばれる名など、』
 呼ばれる名はない。敵にそう告げようとした瞬間、不意に耳鳴りがし、目の前がちらつきはじめる。記憶が蘇る時の感覚だった。おもわずよろめき、地面に手をつく。フラッシュバックするのは、いくつかの場面。オーバーテクノロジーが生み出した機械の巨人兵の心臓部、そしてこの月の最深部・同胞たちの寝所に程近い場所。セシルは確かに浮世離れした雰囲気の老人とその横に立つ人を見送った。その人の姿は――。
信じられる事ではなかった。意識が引き戻され、再び見据えた目の前の男は、あのビジョンの中で見た人物と同じ鎧を纏っていて。
『さあ、セシル。お前は何を見た?』
 別れの時も外されることのなかった兜が外され、現れたのは自分とおなじ、淡い色をした銀の髪。遠い記憶の中にある誰か――優しく、威厳に満ちた「あの方」。命を捨てても守りたいと感じていた、唯一の主――を思わせる落ち着いた響きの声と深いまなざし、そして寄せられた額の皺。
『にい、さん?』
 呆然としながらも、脚が勝手にその人の方へと動く。確信となる記憶はないのに、直感的に言葉が出た。たしかについさっきまで敵だと信じ、チャンスがあれば遠慮なく斬ろうと思っていたのに。一度思ったら、もうそれ以外とは思えなくなる。この所、彼に覚えていた妙な感覚はそれゆえだったのかもしれない。
尋ねたい事は沢山ある。元の世界ではどのように自分達は過ごしていたのか。父は、母は。何より何故、こうして敵と味方に別れて異世界でも戦わねばならないのか。
 しかし、駆け寄ろうとして近づいても、 抱きとめられる事はなく、胸先で止められる。
『最初に言っておこう、私はお前を捨てた人間だ。本来はそのように呼ばれる資格など持たない。このように呼びつけ、それを知らせたのも単なる気まぐれだ。ただ……若干この世界にも飽きた。刺し違えても世界を平定しようなどと、勝負を諦めている輩と戦う事にも。精々力を蓄え、私を楽しませてみろ、セシル』
そうして、何かを告げる暇もなく、目の前からあの人は消えた。

 
 倒すべき者だと信じていた、そして依然自分の目前に立ちはだかるそれが肉親だった。あの晩、何があったかを打ち明けると、フリオニールは複雑そうな顔をした。
「そんな事が……だけど肉親だからってだけで、信用する訳にはいかないだろ? いくらあいつの話す事に理屈が通ってるように聞こえても、ここは慎重になったほうがいい」
――おれたちは、彼女の、コスモスの最後の希望なんだから。
 天幕の中、向かい合って座るフリオニールは彼自身にも言い聞かせるように、噛み締めるみたいに呟いた。

 あれから時は過ぎ、セシルたちは自軍を指揮する秩序の神が求めている、世界を救う力があるというあるものを探し、大陸を旅していた。すでにパーティーを離れ、一人で出立した仲間もいる。目の前に迫る敵を倒し、敵の首を取る事だけを考えていればよかった頃とは違ってきている。自分達を呼んだ神は確実に弱りつつあった。
早く決着をつけなければ、元の世界に帰ることが叶わなくなるかもしれない。なのにまだ、手に入れねばならないものの在り処どころか、その手がかりも掴めずにいる。フリオニールのいうように、慎重にならなければいけないのは分かっていても、それでも焦りが募った。
「まさかセシル、あいつの言ったこと、まだ気にしてるのか?」
 少し前、そんな手詰まりの状況にあるセシルを見かねてか、ゴルベーザの訪問があった。「お前達が探しているものの秘密が知りたければ自分を追ってくるが良い」と言い残して。それから目に見えて(彼曰くセシルの方こそが上の空なのだというけれど)フリオニールが落ち着かなさそうなのが、少し可愛いなあ、と何となくセシルは思っていた。本当に心配してくれているんだから、そんな事言ったら彼は怒るだろうけれど。
「気にしてないって言えば、うそになるかな」
あまり深刻になっても何もはじまらないし、なるべく冗談めかして返事を返事をしたけれど、目の前の年若い恋人はやっぱり少し、不貞腐れてるように見えた。
「ねえ、フリオニール」
 突然名前を呼ばれ、虚を突かれたような青年の頬にセシルは指を伸ばす。腰を浮かして、唇に軽くキスをしたら、「誤魔化すなよ」と照れくさそうに言うのも、ひどく好ましかった。前から二人きりになると少し恥ずかしそうに話すのや、取り繕ったり、なんでもない嘘を付くのが苦手そうな質朴な雰囲気が好きだった。それから彼が何かを見つめる時の、射抜くような力強い眼差しも、とても。仲間とのふとしたやりとりの中、歯を見せて年相応に笑う姿を見ると気持ちが安らぎ、いつも気がつくと釣られて笑っていた。
 だから退けてもなお、彼がセシルがいい、と言った瞬間は、色々な気持ちがない交ぜになっていたけれど、嬉しかった。ちゃんと返事をするのも忘れるくらいに。
「前に故郷の話をしてくれたよね。僕も最近思い出した事があるんだ」
「ん、何だ? 話してくれよ」
 彼に聞いて欲しい事がある。あんなにもセシルが彼を退けたかった理由を。この瞬間にも目を臥せると、自分の裡に蘇った燃える街や逃げ惑う人々の姿が見え、そこに響く怨嗟の声が聞こえる気がする事を。そして「時々自分の村を焼いた黒い騎兵隊の夢を見る」とゆらぐ燎火 を見つめながら、顔を強張らせたフリオニールの姿に、確信した、元の世界で犯してしまった、人ならぬ自分の所業について。
 君に見て欲しいものがある。そう前置きし、それがよくよく見えるよう、わざと彼に背中を向け、カンテラの横でセシルはシャツを脱いで見せた。
「お、おい、なにを」
 そういえば、はっきりと明るい所でこんな事をするのは始めてだったかもしれない。彼の表情が伺えないのが残念だ。狼狽した声にちょっとだけ笑う。彼の目には背中一面に刻まれた旧いその傷跡が見えているだろうか。
――悪魔の闘気を纏い、命を糧に敵を屠る剣を用いるには鎧との契約が必要だという。どのようにそれを行ったかは定かではないけれど、確かに契約した結果として、この傷があるのだ。
「前に、君が思うほど綺麗な人間じゃない、と言ったのを覚えている? この傷は鎧との契約の証。僕はね、あの恐ろしい姿通りに人の屍の上を歩いてきたんだよ」
「どういう意味だ?」
 向き直り、フリオニールの両肩に手をかけ、動揺の覗く、あの琥珀色の瞳を覗き込む。
「思い出したんだ。僕は確かに、君の村を焼いた連中と同じような事をやった。君の恐れている虐殺者と同じような格好で。それを認めるのが恐ろしくて僕は、」
 その時、それ以上言葉を重ねるのを制止するよう、ぎこちなくセシルの背中に腕が回った。
「昔のセシルの事は分からないけれど、きっとその時はそうするしかなかったんだとおれは思う。多分、おれの前に、今こうやって仕方なく戦う道しか用意されていないのと同じように。だからこそ出来るなら、いつか言ったかもしれないけど、そんな風にセシルも、自分も、誰だって戦う事のない世界を作りたいと思ってるんだ。
 村を焼いた帝国のやつらは許せない、だけど、それはお前とは別の話だろう?」
 続いた「そんなの当たり前だけどさ」の言葉にも、それからやや間を空け、でも最初はちょっとだけ怖かったよ、と彼が呟いたのにも、何だかセシルは少し救われた気がした。

 翌日、大陸を南下し、旅を続けるという仲間と別れ、兄が向かった旧火山帯への道をセシルは走っている。自分を誘ったのが策略にしろ他の理由があるにしろ、兄が何をしようとしているのか、見極めねばならないだろう。一時の情に流され、会いに行くわけではない。これは、戦う理由を求め、再開する約束をした仲間に恥じないよう、「気になるのなら会ってくればいい」と大きく背中を押してくれた少年に報いるための旅だ。
 彼らや出立を告げずに今しがた別れてきた、あの真摯な目をした青年の元に無事に帰り、ちゃんと謝ろうとセシルは思った。そしていつもの、気恥ずかしさのにじむ響きで「おかえり」と言うのをどうしようもなく聞きたくなりながら、道を急いだ。